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最近指定された文化財

      最近指定された文化財 

 山形県内で近年、新たに指定を受けた文化財を紹介しています。

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 懸仏画像               

 

県指定有形文化財(工芸品)


「観音三尊懸仏」

(かんのんさんぞんかけぼとけ)

(平成29年4月28日指定) 

 

(形  状)鏡面に金銅製の聖観音像、天部形像、軍荼利明王像を貼付した懸仏。
      奉納者と思われる名(「藤原義長」)を刻んだ銅版が付いている。
(制作年代)鎌倉時代。
(作  者)不明
(寸  法)鏡面 外径 43.4cm 内区径 35.9cm
(特  色)
 鎌倉時代の懸仏として、その大きさと製作の優秀さから貴重なものです。特に貼付されている仏像はそれぞれに優れた作のものです。
 
 また、鏡面に貼付される仏像が立体化していく過渡的作例として、懸仏の形式の変遷の資料となる貴重なものです。仏像は、聖観音-妙見菩薩‐軍荼利明王というはぐと権現の本地仏を表しており、現在のところその最古の資料となります。
 
 この懸仏は鎌倉時代後期に改装されて現状に至ったと想定できるものなので、羽黒権現の本地仏は鎌倉時代後期に設定されたのではないかと考えることができる歴史的価値も有しています。
 
また、聖観音菩薩の形態からは鎌倉時代前期の羽黒山は天台宗の影響が及んでいたことが考えられるので、この懸仏は羽黒山信仰の成立や変遷の歴史の解明にも役立つものです。
 

所有者:鶴岡市 個人

公開の有無:無

 

 

 20170522132556-0001.tif

 

 

 

 

 

                       

 

県指定有形文化財(歴史資料)


「東本願寺御再建につき献上木として御影堂一番御虹梁並びに御柱山出し運搬の図  附 古文書2通」

(ひがしほんがんじごさいけんにつきけんじょうぼくとしてごえいどういちばんごこうりょうならびにおんばしらやまだしうんぱんのず つけたり こもんじょ2つう)

(平成29年4月28日指定) 

 

屏風

(材質)紙
(形  状)著色屏風六曲一双
(制作年代)江戸時代(享和2年頃)
(作  者)不明
(寸  法)左隻 149.5×332.0cm  右隻 149.5×331.0cm
(特  色)
 天明8年(1877)の京都大火で東本願寺の御影堂・阿弥陀堂が焼失し、翌寛政元年(1789)からの10年に及ぶ再建に際し、現在の河北町の名主工藤儀七を中心とする最上門徒の活躍ぶりを描いた屏風です。
 
 屏風は、左隻・右隻ともに上下2段に分かれて描かれています。上段には現在の真室川町の山中から伐り出したケヤキの巨木を、塩根川、鮭川、最上川を下して酒田湊まで運ぶ様子と、そこから船で大阪まで輸送し、淀川を上って伏見を経て京都七条の東本願寺へ運搬する様子が描かれています。
 
 古文書
 1通 享和3年9月6日 工藤儀七覚書(長崎来円寺・御使僧宛)
(材質)楮紙
(寸  法)全体 14.3×193.0cm
 
 1通 享和4年3月2日 懸鼓庵書状(工藤儀七宛)
(材質)楮紙
(寸  法)全体 16.5×84.0cm
 
 所有者:河北町溝延 工藤益太郎氏
 公開の有無:無

 

 

 

 

 

 

阿弥陀如来坐像

阿弥陀如来坐像    

 

右菩薩

右脇侍菩薩立像

 

左菩薩

左脇侍菩薩立像

 

                       

 

県指定有形文化財(彫刻)


木造阿弥陀如来坐像及び両脇侍菩薩立像

(もくぞうあみだにょらいざぞうおよびりょうわきじぼさつりゅうぞう)

(平成28年12月6日指定 寒河江市大字平塩 平塩寺) 

 

(形  状)阿弥陀三尊像
(制作年代)鎌倉時代後期から南北朝時代(14世紀前半頃)
(作  者)不明
(寸  法)中尊 阿弥陀如来坐像 像高70.1cm
       左脇侍菩薩像 像高81.4㎝
       右脇侍菩薩像 像高81.8cm
(構  造)木造寄木造
(特  色)
 中尊を坐像、脇侍を立像とする三尊形式であり、鎌倉時代までに多く見られる形式である。また、この三尊像は全体に落ち着いたかっちりとした表現を見せ、衣文もゆったりとしたふくらみを表しており中央の仏師の作風を示しています。
 中尊像は頭部が大きくやや背を丸めて首を前に出し、肩幅が広く坐高が短い箱型の体形であり、鎌倉後期から南北朝期以降に見られる様式です。南北朝期の特徴である像内に像心束、前後束を残す珍しい構造です。
脇侍像については、高髷であること、天冠台に無文帯が見られること、条帛の端を下から出すことは鎌倉時代の様式です。また、天冠台に髪を絡ませることは鎌倉時代後期の様式です。

 この三尊像は隣接する平塩熊野神社境内にあった「阿弥陀堂」にあったといわれ、熊野権現の本地仏であったと考えられています。さらに本像の遺る平塩寺は鎌倉時代に醍醐寺の勢力によって開基されたと考えられ、真言宗醍醐寺ゆかりの寺院の遺品としての歴史的価値を有するものです。

 

所有者:宗教法人 平塩寺 代表役員 渡辺良仁

公開の有無:有(事前にお問い合わせください)

 

 

 

 

 徒然草図

 

紙本著色徒然草図 六曲屏風

上段 右隻

下段 左隻

                       

 

県指定有形文化財(絵画)


「紙本著色徒然草図 六曲屏風

(しほんちゃくしょくつれづれぐさず ろっきょくびょうぶ)

(平成28年3月25日指定 米沢市丸の内 米沢市上杉博物館) 

 

寸   法  両隻 たて116.4㎝×よこ269.6㎝

制作年代  江戸時代中期(17世紀中頃~後半)

作   者  不明

特   色

 鎌倉時代末期、兼好法師によって書かれた「徒然草」の全244段から28の説話を選び、一話に一図ずつ人物や情景が描かれています。右隻、左隻それぞれに14場面が描かれており、「徒然草」を題材とする絵画作品は全国的にも少ない上に、本屏風のように28場面を描いている屏風は他に例がありません。さらに、「徒然草」の中から内容や情景が類似する章段を集めて画面に配するという工夫が凝らされており、見ごたえがあります。

 また、絢爛たる衣装をまとった女性たちが登場する王朝風の場面が多く見られ、屏風全体から華麗な印象を受けます。こうした貴族の世界に加えて、武士の世界や庶民の世界、僧侶の世界が混然となって「徒然草」の文学空間が構成されています。

 「徒然草」を題材とする屏風のうち、17世紀に描かれた本屏風は最も古い作例のひとつであり、我が国の文化史上貴重な資料です。

 作者は特定できませんが、表現技法の豊かさや描写力の確かさは優れた水準に達しており、絵画作品として高い観賞価値があります。

 また、金雲を巧みに使って多数の場面をバランスよく配置する優れた構図感覚と、金雲や地面に金砂子と金の切箔を使用して画面に豪華さと重厚さを与える優れた技法が見られます。 

  

所有者:米沢市

公開の有無:お披露目展示 平成28年4月16日(土)~5月15日(日)

         米沢市上杉博物館常設展示室上杉文華館

         問合せ先 米沢市上杉博物館 TEL 0238-26-8001

 

 

 

 舘山城跡 全景

          舘山城跡(全景)

 

舘山城跡 西から 

館山城跡(山城虎口) 

                       

 

国指定史跡


「舘山城跡(たてやまじょうあと)

(平成28年3月1日指定 米沢市大字舘山ほか) 

 

面積 63,367.29

概要

(1)特色

 戦国大名伊達家が勢力を拡大した天正15~19年(1587~1591)にかけての中心的な城館跡です。山城と山麓居館跡が良好な状態で残り、陸奥国南部の有力大名の城館の構造だけでなく、中世社会の動向を知る上で重要なものです。 

(2)説明

 米沢盆地西縁の丘陵地の東端、小樽川と大樽川の合流地点付近の標高310~330mの丘陵先端に立地する山城と山麓部の館跡から成る城跡です。伊達家の正式な歴史書である「伊達治家記録(だてじか(け)きろく)」に見える舘山城と推定されています。山城は土塁(どるい)や堀切(ほりきり)で区画された3つの曲輪(くるわ)から成り、全長は約320mです。米沢市教育委員会の発掘調査の結果、伊達家が治世にあたった16世紀代と上杉家の米沢入封(にゅうぶ)直後の17世紀前半の遺構があることが判明しました。

 山麓部の居館群は、米沢市教育委員会による発掘調査で16世紀代の遺構が検出され、舘山東館では掘立柱(ほったてばしら)建物や庭園の可能性のある池状遺構、井戸跡等が検出されています。 

 

用語説明

 土塁:防御のための土手

 堀切:尾根筋を切断した堀

 曲輪:土塁などの防御施設で囲まれた平坦部

 掘立柱建物:地面に穴を掘り、そこに柱を立てた建物

 

 

 

 

 

 嶋遺跡 追加指定

 嶋遺跡(遠景)

青線:既指定地  赤線:追加指定地

 

国指定史跡


「嶋遺跡(しまいせき)

(平成28年3月1日追加指定 山形市嶋北) 

 

面積 8,845.00㎡(追加指定)

 

追加指定について

 打込式の柱によって構築される建物群を中心に、その周辺の低地部からは各種木製品が多量に出土しており、古墳時代後期(6世紀後半)の東北地方における集落構造や生活様式の復元が可能になる稀有な遺跡です。新たに史跡内と同様の遺構や遺物が確認された部分が追加指定されました。

 

概要

 低湿地に営まれた古墳時代後期の集落跡です。

 昭和37~39年に山形県、山形市及び島遺跡保存会が、計6次の発掘調査を実施しました。その結果、住居跡や高床式の倉庫跡とともに、多数の土器・木製品が出土しました。特に木製品には、鞍(くら)・弓など古墳の副葬品と共通するものをはじめ、杵(きね)・梯子(はしご)・木製容器など多種多様なものがあり、東北地方における古墳文化期の集落跡として学術的な価値が高いとして、昭和41年12月19日に国の史跡に指定されています。

 平成18年度に、山形市教育委員会が遺跡の内容確認のための発掘調査を実施したところ、既指定地の周辺部にも史跡内と同様の遺構や遺物が広がることが確認されたことから、平成22年2月22日に追加指定を受けています。

 

公開の有無:「嶋遺跡公園」として開放しています。 

 

 

                       毘沙門天

 

 木造毘沙門天立像
県指定有形文化財(彫刻)


「木造毘沙門天立像(もくぞうびしゃもんてんりゅうぞう)

(平成27年10月16日指定 山形市大字山寺) 

 

 

時代は平安前期(9世紀)。

 

ケヤキ材の一木丸彫像。像高133.3cm。

 

内刳を施さないという構造と肩幅が広く、胸を厚く作り、脇腹を締め、さらに腰を太くするという量感を強調した体形です。首筋を覆うシコロと眉庇(まびさし)、頂上に宝珠形の飾りのついた兜を被り、顔は怒って見開いた目をし、口を閉じています。

 

腰をやや左にひねり、右足を広げて二邪鬼の上に立ちます。左手を曲げて前に出して掌に宝塔を載せ、右手は上にあげて戟(げき)を持ちます。

 

作風は重厚で同時代の遺品として優れ、平安時代前期の東北の天台宗の拠点としての立石寺の歴史的意味を考える上で資料的な価値を持ちます。

 

所有者:宗教法人 立石寺

公開の有無:有(根本中堂内陣)

 

 

 

大日如来像

           

木造大日如来坐像

県指定有形文化財(彫刻)


「木造大日如来坐像(もくぞうだいにちにょらいざぞう)

(平成27年10月16日指定 山形市大字平清水) 

 

時代は平安中期(10世紀半ば~後半)。

 

像高110.9cm。

 

 一木造で後頭部から内刳と体部の背刳をいう古様の構造であり、胸が厚く、脇を引き締め、さらに腹部の肉付けを厚くするという豊かな量感を示す体形です。 

結跏趺坐し、法界定印を結ぶ胎蔵界の大日如来像です。垂髻(すいけい)を結い、山形の飾りのついた天冠台を彫出しています。彫眼で白毫相(びゃくごうそう)、三道を彫出しています。条帛(じょうはく)、臂釧(ひせん)、腕釧(わんせん)をつけています。

 

条帛の二重目を肩から外す形式は天台宗系胎蔵界大日如来像として資料的価値あり、全国的にも遺品が少ない中で、本像は最古の部類に入るものと考えられ、歴史的価値が高いものです。                              

 

所有者:宗教法人 平泉寺

公開の有無:無(大日堂秘仏)

 

 

  

安国寺画像

           

 安国寺楼門

 

 

 
県指定有形文化財(建造物)


「安国寺楼門(あんこくじろうもん)

(平成27年3月24日指定 山辺町大字大寺) 

 

 構造形式は三間一戸の楼門で、1階2階とも桁行三間(けたゆきさんげん)梁間二間(はりまにけん)で、入母屋造。かつて茅葺ですが大正期に改修され、現在は鉄板葺です。

 1階は礎石に円柱を立てて、腰貫(こしぬき)、内法貫(うちのりぬき)、頭貫(かしらぬき)で軸部を固め、前方の両脇間の正面と表参道を連子(れんじ)・格子(こうし)、側背面を横嵌板壁(よこはめいたかべ)で囲って仁王像を安置し、後方は吹き放ちとしています。柱頭の木鼻(きばな)は繰型(くりがた)で2階と形が異なり、先端が上方に尖っています。組物(くみもの)は出三斗(でみつど)、中備(なかぞなえ)は参道に面する柱間(はしらま)を蓑束(みのづか)とし、それ以外は蟇股(かえるまた)となっています。本柱の柱頭間に水引虹梁(みずひきこうりょう)を架け、この上に雲に松の浮き彫りが載っています。虹梁には渦若葉(うずわかば)が施され、渦が二つ連なるやや珍しい形式です。全体的に18世紀中ごろの様式といえます。また、1階はすべて格天井(ごうてんじょう)で、中央間に参道と接続する切石が敷かれ、仁王像のみ板敷きで、その他はたたきですが、改修されています。

 

 2階は円柱に切目長押(きりめなげし)、腰長押、内法長押、頭貫で軸部を固め、木鼻は繰型です。組物は尾垂木(おだるぎ)を1段持つ三手先(みてさき)ですが、三手目の組物を出三斗にするという特異な形式となっています。中備は蟇股と蓑股です。2階の蟇股は、内部がかなり損傷していますが、波に紅葉の透かし彫りを入れてあります。軒支輪(のきしりん)を3段に設けて手が込んだところを見せています。四周に切目縁(きりめえん)と擬宝珠高欄(ぎぼしこうらん)を廻しています。妻飾りは妻壁を木連格子(きづれごうし)にして虹梁大瓶束(こうりょうたいへいづか)を配し、蕪懸魚(かぶらげぎょ)を下げています。

 

 江戸期に2度火災に遭ったため、宝暦14年(1764年)に建立したと資料にありますが、当門の蟇股および木鼻の形状、渦若葉の絵模様から18世紀頃として大過なく、部材の経年状態とも矛盾しません。彫り物などの目立つ装飾は多くはありませんが、細かい部分で随所に意匠的な工夫がなされています。

 創建当時の安国寺の意義を想起する上で重要な遺構であるといえます。

 

 

  

両所宮

 
鳥海月山両所宮随神門 
県指定有形文化財(建造物)


「鳥海月山両所宮随神門(ちょうかいがっさんりょうしょぐうずいしんもん)

(平成27年3月24日指定 山形市宮町)

 
 

 構造形式は、三間一戸の楼門で、1階は桁行三間(けたゆきさんげん)梁間二間(はりまにけん)、2階は桁行五間梁間二間で、入母屋造、銅板葺(もとは茅葺)です。 

 当社は江戸期に神仏習合していたため、本建物も「仁王門」として建てられましたが、明治期の神仏分離により仁王像を余所に移して随神像を配し、随神門となりました。

 

 1階は礎石に円柱を立て、正面中央の2本柱のみ柱脚に礎盤とも異なる高さのある石造の台座を配しています。その表面には溝が彫られており、かなり珍しいものです。

 両脇間は、側面は板壁、他は吹き放ちとし、後方の両脇間の正側面を格子で囲い随神像を安置しています。木鼻は獅子、象、獏などを配置し、組物(くみもの)は三手先(みてさき)、軒支輪(のきしりん)は2段に取り付け、この部分が2階の腰組(こしぐみ)となっています。柱の柱頭に、本柱間には冠木(かぶき)を、両側面は頭貫(かしらぬき)を、その他は水引虹梁(みずひきこうりょう)を架け渡し、波に龍の彫り物や中備(なかぞなえ)の蟇股(かえるまた)内には虎や兎の彫り物を配置しています。頭貫側面に木瓜(もっこう)型の枠とその中に鋸歯(きょし)状の模様を彫り、水引虹梁には渦若葉(うずわかば)を施しています。特に正面虹梁は、全体的に浮き彫りで葉脈まで表しており、特徴的な彫り方となっています。天井は鏡天井で、鳳凰、麒麟、鶴や亀の彩色画が描かれています。

 

 2階は、組物は三手先、尾垂木(おだるぎ)を2段出し、中備は蟇股、軒支輪は2段となっています。木鼻は正面中央の2本の柱頭は鳳凰の彫り物であり、県内でも類例が少なく、注目すべきものです。

 軒は二軒繁垂木(ふたのきしげだるぎ)、妻飾りは虹梁大瓶束(こうりょうたいへいづか)で波の彫り物を前包み上に置き、蕪懸魚(かぶらげぎょ)を下げて、鰭(ひれ)は草花の浮き彫りが施されています。

 

 当門は、擬宝珠銘(ぎぼしめい)や古文書、渦若葉の模様、蟇股の意匠を含めた様式技法や部材の状態から、天明2年(1782年)の建立と思われます。様式技法、建築年代からも学術的に貴重で重要な文化財です。

 

 

 

 

 三崎

 
      おくのほそ道の風景地 三崎(大師崎)
国指定名勝 


「おくのほそ道の風景地 三崎(大師崎)

(おくのほそみちのふうけいち みさき(だいしざき))

(平成27年3月10日指定 飽海郡遊佐町吹浦・秋田県にかほ市

 象潟町小砂川)

 

 

 三崎山は山形県と秋田県にまたがり、約3,000年前に鳥海山の噴火活動で猿穴(さるあな)溶岩が西に流れ下り海に至った場所です。成層火山のすそ野が海へと続くような地形は、火山国日本にあっても数えるほどしかありません。

 

 三崎の名称は、観音崎(かんのんざき)、大師崎(だいしざき)、不動崎(ふどうざき)の3つの岬から成ることに由来し、南北に約1,200年前に慈覚大師が開削したとされる旧道が通っています。

 

 旧道沿いには、大師堂(だいしどう)、五輪の搭、一里塚跡などがあり、旧道の石や岩は人々の往来ですり減り、歴史の古さを物語っているほか、地獄谷(じごくだに)、駒泣(こまな)かせなどの地名があり、大変な難所であったことを現在も伝えています。

 

 元禄2年(1689年)6月16日、松尾芭蕉と弟子の曾良は、旅の目的地の一つである象潟(きさかた)(現秋田県にかほ市)を目指して吹浦(ふくら)(現山形県遊佐町)を出発し、雨の中、難所の三崎山を越えました。曾良随行日記には、「吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降リ出ル。一リ、女鹿(めが)。是ヨリ難所。馬足不通。番所手形納。大師崎共、三崎共云」と記されています。

 

 三崎に残る鬱蒼としたタブ林を抜ける旧街道は、芭蕉らが訪ねた往時の面影を彷彿とさせるものであり、優れた風景を今に伝えています。その貴重な景観は、「おくのほそ道の風景地」を構成する優れた風致景観であり、名勝にふさわしい価値を有するものです。

 

 

 

 

 

 

若宮八幡神社太々神楽

 

          若宮八幡神社太々神楽

県指定無形民俗文化財 


「若宮八幡神社太々神楽(わかみやはちまんじんじゃだいだいかぐら)

(平成26年12月9日指定 東根市大字東根甲)

 
 

 若宮八幡神社太々神楽は、台風によって作物が被害にあわないように祈る「風祭り」に奉納されてきた神事芸能です。

 風祭りは、かつては二百十日を前にした8月31日に毎年行われていましたが、近年では8月最後の日曜日に行われています。

 現在行われている演目は、「奉幣舞(ほうへいまい)」「鉾舞(ほこまい)」「剣舞(つるぎまい)」「千歳舞(せんざいまい)」「種まき舞(たねまきまい)」「釣り舞(つりまい)」「鬼やらい(おにやらい)」(追儺舞・ついなまい)の7演目(舞人5人)であり、神社の記録から、江戸時代後期より伝承されてきたと考えられます。歌詞や台詞などはまったくなく、舞人は仮面をかぶり終始無言の舞を繰り広げます。

 

(1)共通する所作や定型的舞

 各演目に共通した所作や定型的な舞が見られます。まず、舞台前方に置かれた神籬(ひもろぎ)に参拝し終えてから、神籬の鈴(または御幣)を持って舞い始めます。舞の途中に、舞台四方(東西南北)を歩んで回る定型的な動きが繰り返される部分があり、時計回りで顔を上向きにして歩むのが「天の舞」、反対回りで顔を下向きにして歩むのが「地の舞」、左右の四方回りの途中に舞台中央で行われるのが「切り返し」と呼ばれます。最後に再び神籬の前に座り、鈴または御幣を返却して参拝して退場します。

 

(2)各演目の特徴

 「鉾舞」や「剣舞」は、鉾や刀を持って舞う力強く躍動感溢れる舞です。「千歳舞」や「鬼やらい」には演劇的要素も盛り込まれています。「鬼やらい」は鬼を追い払う演目であり、節分に行われている「豆まき」の原型を思わせます。「種まき舞」は、豊作を祈る農民の願いが舞の中でユーモラスに表現されています。「釣り舞」は豊漁を期待する舞であり、縁起の良い演目です。

 

(3)楽器・楽曲

 大胴(大太鼓)1人、大拍子(締太鼓)1人、横笛3人の5人で構成されます。「天の舞」「地の舞」を行う際の楽曲が主です。舞が緊迫する場面では、通称「雨だれ」という太鼓の打ち方が見られ、強弱のメリハリが効いていて大変効果的です。

 

 基本的に祈祷色の強い舞ですが、動・静、強・弱のメリハリの効いた演目の組み合わせが見られ、古くから考え抜かれた演出があったことが想定されます。1演目の中に定型的舞とそれを打ち破る劇的舞が絡み合って観客を魅了する巧みな構成となっています。

 当神楽は、伝統的な芸態・芸風を保持した優れた芸能と考えることができます。

 

 

 

 

慈恩寺1

 

慈恩寺本堂
 
 
慈恩寺2
 
慈恩寺三重塔
国指定史跡


「慈恩寺旧境内(じおんじきゅうけいだい)

(平成26年10月6日指定 寒河江市大字慈恩寺)

 

 鳥羽天皇の御願寺と伝えられる東北地方を代表する寺院境内内で、江戸時代には、3ヵ院48坊から成っていました。本堂や搭などの堂社と、院坊の屋敷等のたたずまいは、その背景を取りまく城館群や旧境内地の北端近くに存在する行場とともに、旧境内の様相を良好にとどめています。

 

 慈恩寺旧境内は山形盆地の西縁中央に位置し、南側を寒河江川が東流します。葉山の前山群の最も手前の丘陵地を占め、堂塔と前面の院坊屋敷地の背後に中世の城館群が取り巻き、さらに北へ4㎞程の地点に山業(さんごう)と呼ばれる修験の行場を有しています。

 

 本尊木造弥勒菩薩坐像の胎内経奥書から、永仁6年(1298年)には少なくとも鳥羽天皇の御願寺とする伝承が成立していたことが知られています。平安時代後期には、寒河江荘の支配を通じて藤原摂関家の保護を受け、以後、地頭大江氏、最上氏、その改易(元和8年(1622年))後は、江戸幕府の保護を得てきました。

 

 本堂(弥勒堂、元和4年(1618年)建築、重要文化財)のほか、多くの仏像や古文書等の文化財を伝え、一切経会(いっさいきょうえ)には中世以来、林家による舞楽(重要無形民俗文化財)が奉納されます。

 

 中世以来、顕密を兼学し、臨済宗や律宗、時宗等の影響も受けた。江戸時代には、真言方学頭の宝蔵院と華蔵院、それに天台方別当最上院の3ヵ院と48の坊からなる一山寺院を形成しました。

 

 江戸時代に復興した堂社と院坊屋敷地のたたずまいは、その背景を取り巻く城館群や旧境内地の北端近くに存在する行場とともに、旧境内の様相を良好にとどめています。我が国の仏教信仰のあり方を知る上で極めて重要なものです。

 

 

 

 

 

 

本合海

 
本合海
国指定名勝 


「おくのほそ道の風景地 本合海

(おくのほそみちのふうけいち もとあいかい)

(平成26年10月6日指定 新庄市大字本合海)

 

 本合海は、山形県の母なる川である最上川の中流よりやや下流、新庄市西部に位置しています。

 最上川は、本合海の地で八向山の白い崖に当たり、大きく西に向きを変えます。大河の流れと白い断崖、緑の山が織りなす本合海の風景は絶景であり、古来、最上川をたどる旅人の心を深くとらえ、多くの詩歌が詠まれています。

 

 「おくのほそ道」で「五月雨を あつめて早し 最上川」と詠んだ松尾芭蕉の一行は、元禄二年(1689年)六月、本合海の地から乗船し、最上川を下っています。最上川の急流を実際に舟で下った芭蕉は、「涼し」を「早し」と改め、最上川の豪壮さや激しさを表現したといわれ、周囲の山々に降り注いだ雨が集まって急流となる最上川のイメージが定着することになりました。

 

 本合海は、古来より内陸と庄内を結ぶ最上川舟運の重要な中継地として、さらには新庄を越えて陸奥国へ抜ける陸上交通の要地として栄えました。その様子は江戸時代の川絵図にも描かれています。また、八向山の断崖中腹に建立された矢向神社は、流通・往来の神として古より最上川を上り下りする舟人の信仰を集めてきました。

 

 本合海は、古来より広く観賞の対象とされ、芭蕉が訪ねた往時を偲ぶ優れた風景を今に伝えています。その貴重な景観は「おくのほそ道の風景地」を構成する優れた風致景観であり、名勝にふさわしい価値を有するものです。

 

 

 

 

         永泉寺のハリモミ          

 
永泉寺のハリモミ
県指定天然記念物 


「永泉寺のハリモミ(ようせんじのハリモミ)」

(平成26年3月28日指定 遊佐町直世 所在)

 
ハリモミ 一幹
(樹高32.57m、目どおり4.45m、根まわり22.10m)
 
 永泉寺の庭園北側にある巨樹。樹幹が直立し、盤根が発達し偉容を示しています。毬果も見事で、晩秋の降雪が間近な季節になると種子をとばしますが、付近に苗が生育することはありません。
 
 ハリモミは山形県には自生しない樹木で、地域の人々にとっては見たことのない珍しい樹です。このハリモミが何時の時代に永泉寺に植えられたかについては記録や伝承等は見あたりませんが、米沢市の「西明寺のトラノオモミ」と呼ばれるハリモミは、明暦4年(1658年)に米沢藩主上杉綱勝が手植えしたと言われ、それが正しければ樹齢350年を超えることになります。永泉寺のハリモミはそれを樹体の大きさではるかにしのいでいることを勘案すると、江戸初期頃に植えられたものではないかと推測でき、山形県では珍しいこの木を植えるに当たっては何らかの謂われがあったとの推察もできます。
 
 ハリモミは樹高30m、幹径1m程になるマツ科トウヒ属の常緑針葉樹で、福島県南部以南の本州、四国、九州の温帯に自生しますが、日本海側にはほとんど分布しません。本来の天然分布域を越えた、雪深い東北の地で旺盛に成長している国内有数の巨樹です。
 

 

 

 

 白畑孝太郎の昆虫標本

 
白畑孝太郎の昆虫標本
 
 
 
県指定天然記念物 


「白畑孝太郎の昆虫標本(しらはたこうたろうのこんちゅうひょうほん)」

(平成26年3月28日指定 山形市蔵王半郷 所在)

昆虫標本(標本箱250箱、総数約6万点)
 
 当該昆虫標本は、1930~1980年にわたって収集されたもので、大部分は東北地方、特に山形県内で採集された昆虫が多数を占め、採集の対象種はその地に生息した昆虫の全分類群に及んでいます。また、標本には採集地・採集日、採集者などの採集時の情報が詳細に付随されています。
 
 白畑孝太郎(1914-1980)は山形県南村山郡宮生村(現上山市)に生まれました。この蔵王の麓の豊かな自然の中で、幼少の頃より昆虫採集を始め、独学で昆虫の研究に打ち込みました。21歳で警察官となり、職務の傍ら昆虫の調査研究を続け、酒田市において66歳で急逝するまでの半世紀余の間、多数の新種を発見・命名するなど近代昆虫学の発展に大きな足跡を残した在野の昆虫研究者です。
 
 白畑孝太郎の約6万点の昆虫標本は、日本の昆虫研究の黎明期である1930年代から50年余におよぶ長期間にわたるものです。また、昆虫のあらゆる分類群が山形県の全域を対象として収集されていることから、1つの県の昆虫相が丸ごと収集されていると言えます。これは、郷土の自然史の解明のみならず、日本の自然史の解明にも道を開く他に例を見ない貴重な内容で、本標本の学術的な価値は極めて大きいものがあります。山形県の自然史を主な研究対象として集められた本標本は、特に貴重な動物の標本です。
 

  

 

  

 

松例祭の大松明行事

 
松例祭の大松明行事
 
 
国指定重要無形民俗文化財
 
 
 

「松例祭の大松明行事(しょうれいさいのおおたいまつぎょうじ)」

(平成26年3月10日指定 鶴岡市)

 
 松例祭の大松明行事は、年の変わり目にあたって新たな年を迎えるために行われる祭礼行事で、山形県鶴岡市に鎮座する出羽三山神社で12月31日から1月1日にかけて行われる行事を中心とします。この行事は羽黒修験の冬の峰の結願の行事として行われてきたもので、現在では手向地区の若者達によって担われています。
 
 12月30日には手向地区の若者が神社に集まり、手向地区の八町が上の「位上方」と下の「先途方」に分かれて二本の大松明を作る「大松明まるき」が行われます。翌31日は手向地区の若者達によって「庭上」と呼ばれる神社境内や「補屋」と呼ばれる建物の中で、綱さばきなどの儀礼が行われます。夜11時過ぎには庭上で上下に分かれた若者によって大松明引きが行われ、その勝ち負けと大松明の燃え具合によって翌年の豊作や豊漁を占います。この後、庭上では国分神事や新たな年の火を切り出す火の打替が行われて、新年を迎える行事が終了します。

 我が国には同種のものが数多くあります。これらの行事は新たな年を迎えるにあたって火を切り替えるなど時間の更新の意識が見られるものもあり、我が国の新年を迎える行事の性格を示すものと考えられます。本件もそのような行事であり、同種の行事の典型例の一つです。
 
 我が国における新年を迎える行事の性格や変遷を考える上で重要な行事です。
 

 

 

  

 

赤坂の薬師ザクラ 

 
赤坂の薬師ザクラ
 
県指定天然記念物 


「赤坂の薬師ザクラ(あかさかのやくしざくら)」
(平成25
年11月29日指定 白鷹町箕和田 所在)

 
エドヒガン 一幹
(樹高6.70m、目どおり2.69m、根まわり7.20m)
 
 白鷹町に残るエドヒガンの古木の一本。最上川の西岸、赤坂薬師堂のある高台の傍にあります。樹が立っているところは丘陵から遮断された高台となっており、樹の姿と併せて特徴的な印象を加えています。
 
 ごつごつした樹肌で、多くのこぶがあります。樹高1.2mのところで南方向に曲がり、二つに枝分かれし、一方は枝折れし、枝分かれ後に直立する方は、さらに樹高約3mの位置で、枝分かれしています。現在花を付けるのは2回目に枝分かれした1本の枝です。樹勢は旺盛です。
 
 当地では昔から種まき桜として親しまれ、昔、最上川の洪水のとき、船をつないだという伝説があることから、別名「舟つなぎの桜」、「御薬師様の桜」とも呼ばれています。
 
 残念ながら桜の幹が損傷しているのは、昭和初期の工場火災で桜も半焼したためです。
 
 赤坂の薬師ザクラは現在は目通り幹周2.7m、樹高6.7mですが、平成9年の町天然記念物指定時には幹周が6.1mもある非常に立派な木でした。当時の主幹は腐朽してしまったものの、後継となる現在の主幹が旺盛な成長を示しています。台地の縁にあることもあって開花時には最上川周辺から遠望できる見事な桜です。古文献にも登場し、古くから親しまれた老樹です。 
 

 

 

 

 

殿入ザクラ

 
殿入ザクラ
 
県指定天然記念物 


「殿入ザクラ(どのいりざくら)」
(平成25
年11月29日指定 白鷹町浅立 所在)

 
エドヒガン 一幹
(樹高14.59m、目どおり6.74m、根まわり8.71m)
 
 白鷹町に残るエドヒガンの古木の一本。最上川の東岸、古峯神社の下にあり、殿入ザクラと呼ばれています。周囲は高台の公園(殿入公園)として整備されており、周囲には様々な種類の桜が植樹されています。
 
 段丘状に整地された西南の角に位置し、根本の一部は斜面にかかっています。樹高約2mから3mの位置で3方に枝が張り、それぞれの枝がさらに枝分かれして広範囲な広がりを見せています。樹勢は旺盛です。
 
 文政12年(1829)米沢藩主上杉斉定が領内巡視のおり立ち寄り、花を観賞したとの伝えがあり、「殿入ザクラ」と呼ばれるようになりました。
 
 周囲の森林経営のため樹勢の衰えが進んでいましたが、近年、所有者の熱心な手入れにより、樹勢は回復しています。
 
 殿入ザクラは目通り幹周6.8m、樹高15m近くあり、樹勢良く、春の開花時には地域の人のみならず遠来の花見客も訪れる名所となっており、地域に親しまれた樹木です。
 

 

 

 

 

釜の越サクラ

 
釜ノ越サクラ
 
県指定天然記念物 


「釜ノ越サクラ(かまのこしさくら)」
(平成25
年11月29日指定 白鷹町高玉 所在)

エドヒガン 一幹
(樹高12.81m、目どおり5.54m、根まわり13.28m)
 
 白鷹町に残るエドヒガンの古木の一本。最上川の西岸、朝日連峰葉山の麓、釜の越農村公園内にあり、すぐ脇を大鮎貝川が流れています。釜ノ越サクラは、地名からついた名称で、釜ノ越は大鮎貝沢の右岸で、「境」、「薬師堂」を結ぶ旧道沿いにあります。
 
 樹高約4mの位置で枝が三つに分かれ、さらに数m上がった位置で2から3本に枝割れしています。3本の枝の内、1本は二股に分かれた後で枯損し、残り2本の枝から分かれる各3本の枝から出る小枝に花を咲かせます。樹勢は芳しくはありませんが、保存会では町の支援を受け樹勢回復に取り組んでいます。
 
 釜ノ越サクラの樹下に三個の巨石があり、かつて後三年の役(1083~1087)の際に、源義家がこの地に陣を置き、この石で竈を築き、兵糧を炊いたとの伝説があります。
 
 釜ノ越サクラは目通り幹周5.5m、樹高13m近くある老樹で、既に県指定となっている薬師ザクラに近接し、桜の名所を形作っています。大枝の衰弱が激しく、往事の樹姿はありませんが、地元では手厚い保護をし樹勢の回復に手を尽くしており、その甲斐あって近年、若枝が多数発生し、再び沢山の花を付けるようになってきています。開花時には多くの人びとが訪れ、地域に親しまれた樹木です。 
 

 

 

 

 

子守堂のサクラ

 
子守堂のサクラ
 
県指定天然記念物 


「子守堂のサクラ(こもりどうのさくら)」
(平成25
年11月29日指定 白鷹町 鮎貝所在)

エドヒガン 一幹
(樹高14.51m、目どおり7.15m、根まわり10.30m
 
 白鷹町に残るエドヒガンの古木の一本。最上川の西岸、鮎貝八幡宮(鮎貝城跡)の西側にあります。  
 
 樹高、目どおり、根まわりともに指折りの巨木です。老木でありながら、坂道より見上げる姿は、大変見事です。樹高約4mの位置で二つの大きな枝に分かれ、上に延びる大きな枝から多くの枝分かれがあり、樹勢は旺盛です。
 
 この場所は鮎貝城跡の一角で、「子守堂」とは、昔桜の側に子守堂の祠を建てて籠守大明神を勧請したことに由来します。また、この地を治めた本庄家の子守にまつわる伝説が今も残っています。
 
 子守堂のサクラは目通り幹周7m、樹高15m近く、樹勢良く、最上川沿いの低地からよく目立つ位置にあり、春の開花時にはその姿が遠望できます。地域のランドマークの一つで、地域に親しまれた樹木です。
 

 

 

 

       八乙女種まきザクラ        

 
八乙女種まきザクラ
 
県指定天然記念物 


「八乙女種まきザクラ(やおとめたねまきざくら)」
(平成25年11月29日指定 白鷹町荒砥甲 所在)

エドヒガン 一幹
(樹高17.74m、目どおり4.67m、根まわり8.30m)
 
 白鷹町に残るエドヒガンの古木の一本。最上川の東岸にある八乙女八幡神社の参道石段を上った先、鳥居の右手後方に立っています。
 
 主幹は西方向にやや傾斜しながら延び、樹高約8mの位置で枝分かれし、上に延びる枝の樹勢は良い状態です。

 この桜は、一説に、四百余年前に、荒砥城主桑島和泉守が、その前庭に植えたものと称せられ、昔は、この桜が咲いた時が、春の苗代に種をまく好期とされたことから、通称「種まきザクラ」と呼ばれてきました。

 八乙女種まきザクラは目通り幹周4.7m、樹高18m近くあり、樹形にすぐれ、樹勢が特に良く、八乙女神社境内でひときわ目立つ大木です。樹形にすぐれ、名の通り、地域の歳時記に組み込まれた樹木で、藩政時代から親しまれています。

 

 

 

後庵ザクラ

 
後庵ザクラ
 
県指定天然記念物 


「後庵ザクラ(ごあんざくら)」
(平成25年11月29日指定 白鷹町鮎貝 所在)

エドヒガン 一幹
(樹高14.84m、目どおり5.06m、根まわり5.90m)
 
 白鷹町に残るエドヒガンの古木の一本。最上川の西岸、鮎貝八幡宮(鮎貝城本丸跡)の北側に位置します。
 
 民家の庭先にあり、すぐ脇は鮎貝城の空堀となっており、急激に落ち込んだ斜面となっています。主幹は、民家の地面よりも一段低い斜面より横向に生えています。
 
 主幹の一部は空洞化しているものの、太い幹は根元付近で急角度に曲がり、二本の枝から伸びる枝張りは立派で樹勢も旺盛です。
 
 鮎貝城の後側(北側)あった医者が「後庵」と呼ばれ、後庵の側にある桜ということでその名が付いたといわれています。
 
 後庵ザクラは目通り幹周5.1m、樹高15m近くあり、樹勢良く、所有者がこの木を大切にし、よく管理しています。私有地にありますが花時には一般の人も多数訪れ、地域に親しまれた樹木です。
 

 

 

 

 

旧西五百川小学校三中分校

  
           旧西五百川小学校三中分校
 

 

県指定有形文化財(建造物)


「旧西五百川小学校三中分校

(きゅうにしいもがわしょうがっこうみなかぶんこう)
(平成25年3月26日指定 朝日町大字三中)

 
  
 朝日町の三中八ッ沼地区の高台に建つ旧西五百川小学校三中分校は、木造3階建てで、総2階造りの上部に桁行・梁間などの規模面積をやや縮小した3階部を載せた形式です。切石(凝灰岩)積みの基礎石に直接柱を立ててあり、壁は和風の土蔵造りで、内外ともに漆喰仕上げの白壁建築です。
 
 明治15年(1882年)に三中中学校として建てられたもので、当時としては稀に見る白亜の3階建て校舎でした。創建当初の「西村山郡三中村学校新築建図」によると、3階部の丸窓や2階部の窓は縦長で、上部がアーチ状をしていたことなどから、和風様式を基にしながらも、西洋建築への指向も見える建造物です。
 
 建築予算は敷地購入費を含め、総額2391円32銭5厘。大工棟梁佐竹文吉、伊藤徳太郎、白田兵吉の三人が新築工事を請け負いました。
 
 新校舎落成とともに、校名を三餘学校と改称しており、明治20年には三中尋常小学校、同25年には西五百川尋常小学校の分校となるなどし、昭和29年に朝日町立西五百川小学校三中分校となり、平成8年(1996年)3月に本校に統合され閉校となりました。
 
 2階天井の張り替えや小羽葺の屋根をトタンに葺き替えたりしていますが、基本的に旧形状がよく保存されています。明治時代初期における学校建築遺構として、平成9年2月に朝日町の有形文化財にも指定されています。
 建築史的にはもちろん、地方史や教育史などの分野においても本校舎は大変貴重なものです。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


 

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