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没後150年 明治維新の魁「清河八郎」ゆかりの地を巡る

いま、山形から・・・ 山形漫歩 没後150年 明治維新の魁「清河八郎」ゆかりの地を巡る

 日本が新しい時代の夜明けを迎えようとしていた激動の幕末、山形県の庄内町清川出身の勤皇の志士「清河八郎きよかわはちろう」が駆け抜けました。没後150年を迎える節目の年、ゆかりの地を巡り、『明治維新の魁』とも称される幕末の志士「清河八郎」の姿を追ってみましょう。

 

清河八郎の生涯

 清河八郎は、天保元年(1830)10月に庄内藩領出羽国田川郡清川村(現:山形県庄内町)に、庄内一の醸造石数を誇る酒屋の長男、斎藤元司として生まれます。当時の清川は、紅花などを酒田港まで運ぶ最上川舟運の関所があり、水駅・陸駅の宿場として栄えていました。

「勤皇志士寄書屏風」八郎と親交のあった志士たちの寄せ書きを屏風に仕立てたもの。郷土の父に贈呈した。

 幼少の頃から学問と剣術を学び、18歳の時に江戸遊学のために家出。当時の最高学府で学問を学び、剣は千葉周作の北辰一刀流を修め、弱冠25歳で『清河塾』を開きます。この時、故郷清川に思いを寄せ、大河のように大きな人物になりたいとの決意を込め、「川」を「河」の文字にあらため「清河八郎」と改名したと伝えられています。

清河八郎肖像画

 清河八郎が文武両道に励んでいる頃、日本の歴史が動き始めていました。黒船の来航、そして、八郎が行動を興すきっかけになる「桜田門外の変」が起こります。「国を守るためなら虎の尾を踏む危険も恐れない」という意味がこめられた「虎尾こびの会」を結成したのは、八郎31歳の時でした。このあたりから、八郎が34歳で亡くなるまでの時期、日本が近代化へと向かう激動の歴史の中に八郎波乱の人生が重なっていきます。

「浪士隊名簿」参加した浪士たちの直筆名簿。近藤勇、土方歳三、沖田総司らの署名も。

 歴史上、名を馳せた人、無名のまま、時代に翻弄され散っていった人など、多くの人、出来事が入り乱れた幕末。八郎は幕府に追われる身になり、同士、妻が捕えられるという中、天皇を頂点とする政治を実施しようとする尊皇攘夷そんのうじょういの志のもと、時代と共に駆け回ります。

暗殺当日に詠んだ八郎の歌。辞世の句となる。

 しかし、八郎34歳の時、志半ばにして暗殺されてしまいます。

「八郎は、暗殺当日に2首の歌を詠んだようです。その内容は、まるで暗殺されることを覚悟しているようにも受け取れる歌であり、たとえ我が身に何があろうと、貫こうとする想いが伝わってくるようです」と清河八郎記念館の館長廣田幸記さんは話します。

清河八郎記念館の館長 廣田幸記さん「誤解のない清河八郎を伝えていくのが勤め」と。

○暗殺当日に詠んだという歌
『魁がけて またさきがけん 死出しでの山 まよいはせまじ すめらぎの道』
『砕けても また砕けても よる波は 岩角をしも 打ち砕くらむ』

 八郎の建白のもとに結成された「浪士組」は、八郎の死後、新撰組、新徴組へと分かれていきます。生前、浪士組の同士であった、近藤勇、土方歳三、沖田総司などが有名な新撰組は、八郎の回天の思想との考えの違いから別れ、その後の行動は歴史が語っています。

 八郎は日本の近代夜明けの魁として、全力疾走してきましたが、八郎の死後、日本は、もはや、留まることのできない大きなうねりとともに、明治維新へと突入していきます。

 

清河八郎を知る

 平成22年の清河八郎生誕180年から平成24年の没後150年までの3年間、「清河八郎顕彰記念事業」として、八郎が目指したものについて多角的な視点から考察するシンポジウムなど、様々なイベントが開催されています。

妻、お蓮の死後、八郎が母に宛てた手紙。

 また、清川出身の脚本家により八郎の妻「おれん」の劇が上演され、多くの観客の涙をさそいました。お蓮の名は、泥中に咲く花“蓮”に例えて八郎が名付けました。お蓮は、倒幕を目指す八郎の行いから幕府により投獄され、拷問の末に命を落とします。八郎はお蓮の死を深く悲しみます。八郎の波乱な人生を陰で支え、八郎を慕い、最後まで信じ続けていたお蓮の獄中からの手紙や、八郎がお蓮に送った手紙も「清河八郎記念館」で見ることができます。

 「清河八郎記念館」には、八郎直筆の様々な資料が数多く展示されています。母・亀代かめよを伊勢参りに連れていった旅の記録や暗殺される直前に両親に宛てた手紙など、八郎が何を考え、何を思ったのかを伺い知ることができます。

清河八郎記念館内
清河神社
5月5日 清河神社例大祭

 

 「清河八郎記念館」と同じ敷地内に、清河八郎を文武両道の神として祀る「清河神社」があります。八郎没後70年にあたる昭和8年、清川の住民を中心に、八郎の偉業を称える全国有志の支援を受け創建されました。毎年、5月5日(こどもの日)には例大祭が厳かに執り行われています。

 

清河八郎の偉業を多くの人に伝えたい
八郎、お蓮150回忌合同法要

 平成23年妻お蓮の没後150年、平成24年八郎没後150年にあわせ、平成23年9月10日に八郎、お蓮の150回忌の法要が、清川にある歓喜寺かんきじで行われました。その際、八郎の直系にあたる子孫も参列され、合同法要を機に清川の住民との交流が始まったといいます。

 史実は一つでも、そこに関わった人物の評価は、それを見る人の立場、想いなどで異なることも少なくありません。

歓喜寺にある八郎とお蓮の墓。東京の伝通院にも2人の墓がある。

 八郎を知る一つとして、同じ山形県庄内出身の作家、藤沢周平の小説「回天の門」があります。周平の恩師が記念館の館長であった縁もあり、執筆に入りました。2年をかけて記念館に足を運び、展示資料を読み解くなどして、八郎の生涯を調べたと言われています。足しげく記念館を訪れ、八郎という志士に向き合い執筆された小説では、幼少の日々から、志半ばにして討たれるまでの八郎の行動と、彼を取り巻く人物たちを、史実に基づきながら丁寧に追っていくことで、八郎の人物像が描かれています。

 「清河八郎は、故郷清川を家出という形で上京し、何の後ろ盾もない中、高い志のもと、人との繋がりを大切にし、類まれなる説得力で、数多くの同士をまとめていたのだと思います。清河八郎を酷評する書籍でも、『清河八郎が明治維新の扉を開け、坂本龍馬が閉じた』と記していることからも、八郎の成した事の大きさを認めているのが分かります」と、廣田さんは、八郎の人物像とその評価について話します。

 激動の幕末という舞台に登場する数多くの志士たち。清河八郎もその中の一人にすぎないかもしれませんが、確かに八郎の志や人物に魅せられた同士が多く存在しました。

 ぜひ、清河八郎記念館などを巡り、幕末を駆け抜けたひとりの志士を皆さんの目で追ってみてはいかがでしょうか。

 

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取材協力・お問い合わせ
清河八郎記念館 TEL.0234-57-2104
清河神社
歓喜寺

 

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  • 平成24年9月7日公開

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