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没後400年 出羽の虎将「最上義光」ゆかりの地を訪ねる



いま、山形から・・・ 山形漫歩 没後400年 出羽の虎将「最上義光」ゆかりの地を訪ねる
三十八間総覆輪筋兜さんじゅうはちけんそうふくりんすじかぶと。義光愛用の兜で織田信長より拝領したと伝えられている。長谷堂合戦で敵の弾が当たった弾痕がある。最上義光歴史館所蔵

 戦国時代から江戸時代初期にかけて、現在の山形の礎を築いた「最上義光」。今年度(平成25年度)は、没後400年という節目の年にあたります。400年を経過した今でも、山形市には義光時代の祭りや町名、道など、あちらこちらに名残りがあります。文武両道に優れ、山形を愛し、民を愛した、最上義光の魅力を探ってみましょう。

出羽の虎将 最上義光
平成20年3月に鍬形と利剣が復元された三十八間総覆輪筋兜。最上義光歴史館所蔵

 最上義光は、天文15年(1546年)正月に第10代山形当主・最上 義守よしもりの嫡男として生まれました。幼名は白寿はくじゅ。15歳で元服、室町幕府第13代将軍足利義輝より「義」の字を賜り、義光と名乗ります。「義光」と書いて「よしあき」と読みます。後に、妹の義姫(仙台藩の初代藩主・伊達政宗の母)に宛てた手紙に、ひらがなで「よしあき」と書かれています。最上義光歴史館のボランティアサポーターの多田美紀男さんは、山形県民でも「よしみつ」と読む人が多くいるとのことで、まずは名前をきちんと覚えていただくことからガイドを始めると言います。

 最上氏の祖、初代山形城主斯波兼頼しばかねより (1315~1379年)は、清和源氏(清和天皇から分かれた氏族)で、足利氏の流れを組んでいます。斯波兼頼より11代目に当たる最上義光は、清和源氏の血筋であることに誇りを持ち、斯波兼頼を尊崇していました。

 

最上義光の人となり
最上義光公没後400年記念事業実行委員会 実行委員長 大久保義彦さん。

 過去の大河ドラマでの描かれ方などが影響しているようで、義光に対しては、負のイメージが定着している感があります。

 人の評価は時代や立場によってさまざまですが、今回、お話を伺った、最上義光公没後400年記念事業実行委員長の大久保義彦さん、最上義光歴史館サポーター 義光会ぎこうかい副会長の多田さんのお二人は、「本来の義光公の姿を知ってほしい」と口を揃えます。

 乱世の時代では、謀略、殺戮は日常のことだったと思われます。そのような中で、義光は、人命が損なわれることを極力少なくしようと努めたといわています。また、降伏した敵側の将兵も許し、望めば家臣団に編入しました。よく知られている谷地やち城主の白鳥十郎しらとりじゅうろう 誘殺事件についても、もし戦えば互いに多くの兵、領民を失い、田畑を荒廃させることに成り兼ねないところですが、トップを討ち取ることは、孫子の兵法に習い、無駄な血は流さないで済むとの見方もあります。十郎を討ち取った後、白鳥家の重臣は許され現地の有力者になりました。

 
長谷堂城跡。現在は山全体が城址公園となっている。山頂からは敵将直江兼続が本陣を置いた菅沢山と山形城址の山形市を見渡すことができる。

 また、慶長5年(1600年)、諸大名が天下を二分して戦った関ヶ原の合戦。後に出羽の関ヶ原と呼ばれる長谷堂合戦では、最上軍と上杉軍が戦い、約半月の攻防戦の末、最上軍が山形を死守しました。この時、義光は、撤退する直江兼続率いる上杉軍に、「さすが直江、勝ちに乗りたるわが軍に手痛い損害を与えつつ。心静かに退陣したるは、謙信公以来の武勇誉れ今に残りたり」と讃えたといいます。壮絶な戦いの中でも敵方の武勇を讃える、義光の度量の広さをうかがい知ることができるエピソードです。

 

義光の功績
山形城跡(霞城公園)の二の丸東大手門をくぐると、目に飛び込んでくる最上義光騎馬像。足二本で立つ像は、日本各地にある騎馬像でもほとんどないといわれる。昭和52年当時の鋳物職人の意地と誇りが成せた技。

 長谷堂合戦における軍功により、義光は、現在の山形県の村山、最上、庄内各地域から秋田県南部に及ぶ57万石の領地を支配する大大名になりました。それは、徳川一族と豊臣氏を別にすると当時で全国第5位の規模でした。

 義光が整備した山形城は、本丸、二の丸、三の丸から成り、大阪城、駿府城などと同じ完全輪郭式の城郭で、当時の東日本では江戸城に次ぐ、71万坪の広さを持った城郭でした。現在は、本丸・二の丸跡が霞城公園として親しまれていますが、「山形城がそれほど大きな城であったということはあまり知られていないので、多くの人に知ってもらいたい」と多田さんは言います。

二の丸東大手門(平成3年復原)

 城が築かれたのに合わせて町づくりが進められ、城下町の羽州街道沿いには市日のつく町、商人町が形成されました。二日町から十日町まで、一と九を除いて、その数字の日に市が開かれました。今もその町名は残っています。また、職人町も作られ、鍛冶や鋳物は現在も山形の伝統工芸として受け継がれており、銅町という町名も残っています。なお、現在、霞城公園に立つ、最上義光騎馬像は、5トンある像を馬の足二本だけで支えるという高度な技法で建てられたもので、義光時代から受け継がれている山形の鋳物技術の素晴らしさを証明しています。

 義光は、最上川の三難所の開削を行うなど、舟運の開発・発展に努めました。それにより、湊町酒田から江戸や京、大阪などの上方との交易が栄え、物だけでなく多様な文化ももたらされました。また、義光は、庄内平野の治水・かんがい工事を行い、庄内地域を日本有数の穀物地帯へと基盤を整えていきました。

本丸一文字門高麗門(平成25年7月復原)

 また、義光は、神仏を敬い、神社仏閣の保護にも力を注ぎました。現在、観光名所になっている国宝羽黒山の五重塔をはじめ、山寺立石寺の根本中堂、寒河江慈恩寺の三重塔など、多くの神社仏閣の再建、修理等を行っています。

 仁君と慕われた義光の治世では、一揆が起きなかったといわれています。善政を敷き、山形の繁栄の基礎を築いた義光の功績の跡は、今なお、至る所に息づいています。

 

文化人 最上義光

 義光は文化人としての優れた才能の持ち主でもありました。特に連歌の才に優れ、京都で一流の連歌師や著名人たちと詠んだ連歌が多数残されており、戦国時代では細川幽斎ゆうさい(141巻)、前田玄以げんい(34巻)に次ぐ、33巻の巻数となっています。義光が詠んだ優雅な和歌は、京都の堂上貴族、文化人にも高く評価され、第一流人の連歌の会にもしばしば招かれていました。

 

「最上義光公没後400年 記念事業」
最上義光歴史館。午前9時~午後4時30分、月曜日休館、入館料無料。最上義光歴史館から霞城公園東大手門までは徒歩3分程度。

  「最上義光公没後400年記念事業」として、山形市の義光公のゆかりの地を中心に、今年度(平成25年度)4月から各地でさまざまなイベントが開催されています。

 最上義光歴史館では、11月10日(日)までの間、特別展として、「重要文化財 光明寺本『遊行上人絵ゆぎょうしょうにんえ』」(※注)が全巻公開されます。

※注 『遊行上人絵』は時宗じしゅうの開祖一遍上人と二祖の他阿上人の行状を絵と詞で著した伝記絵巻です。

 この絵巻は、義光が当時の狩野かのう派ナンバー2の絵師、狩野宗秀そうしゅうに描かせたものです。狩野派ナンバー1の絵師は、信長や秀吉にしか描かせることができなかったというのですから、当時の義光のステータスの高さをうかがい知ることができます。

最上義光歴史館サポーター義光会副会長 多田美紀男さん。義光が戦の際に持っていた指揮棒。表面には「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光」と刻まれている。重さは1750g。本物の前で本物と同じ重量のレプリカを持つ多田さん。持たせてもらうとずっしり重い。

 義光はこの絵巻を光明寺に寄進しました。光明寺は斯波兼頼の菩提寺で、時宗のお寺です。現在の光明寺は山形市七日町地内にありますが、当時は、現在の歴史館のある場所にあったといわれています。

 光明寺より奈良国立博物館に寄託されていた絵巻が約20年ぶりに山形に里帰りを果たすものですが、全十巻を展示するのは今回が初めてとのこと。各巻でおよそ18メートル前後あるということで、前期と後期に分けて5巻ずつ公開します。

 「いろいろな催しはありますが、この遊行上人絵はぜひ全国のみなさんにご覧いただきたい」と実行委員長の大久保さんは力強く話します。

親しみやすいキャラクターになった「もがみよしあき」。兜を身につけ、指揮棒を持ち、いざ出陣。

 10月12日(土)・13日(日)は「よしあきフェスタ」が開催されます。長谷堂合戦絵巻は、声優神谷明氏のナレーションで、壮絶な激闘が再現され、また、夕方からの薪能たきぎのう (松山能「羽衣」)、甲冑を着た武将が街を練歩く最上軍パレード、県内神輿10基による数百名参加の勇壮な神輿渡御など、多くのイベントが開催されます。詳しくは実行委員会までお問合せいただくか、同委員会のホームページでご確認ください。

 最上義光歴史館では、11月10日以降も最上義光にゆかりの展示を行っていく予定なので、多田さんをはじめ、日夜勉強を重ねた48名のサポーターが、訪れたみなさんを義光ワールドへ誘ってくれます。

 山形の礎を築き、多くの功績を残した最上義光。没後400年の節目の年、記念事業に参加したり、ゆかりの地を訪れたりして義光の足跡や人となりに触れていただき、義光が駆け抜けた戦国の世に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。

 

よしあきフェスタ 最上義光公没後400年記念事業
開催日 平成25年10月12日(土)・13日(日)
10月12日(土) 山形駅西ゾーン〔山形駅西口駅前広場〕
・んまいもの屋台出店 10:00~
・長谷堂合戦絵巻(ナレーション 神谷 明) 11:30~13:00
・よしあきステージ 13:30~16:30
霞城公園ゾーン〔山形城跡 霞城公園〕
薪能たきぎのう(松山能「羽衣」) 18:00~18:50
・プロジェクションマッピング(音と光の映像ショー) ①19:30 ②20:00 ③20:30 開始
10月13日(日) 街なかゾーン〔山形市ほっとなる通り 十日町角~七日町ナナビーンズ前〕
・楽市楽座 10:30~16:00
・吹奏楽ステージ 11:00~
・最上軍パレード
・神輿渡御  12:00~
特別記念講演
・シンポジウム
ホテルメトロポリタン山形 4F 霞城
10月12日(土) 14:00~16:30
基調講演 高橋義夫氏(第106回 直木賞受賞作家) 他
最上義光歴史館
特別展示
特別展「重要文化財光明寺本『遊行上人絵』」全10巻初公開
前期:9月14日(土)~10月14日(月)
後期:10月16日(水)~11月10日(日)

 

取材協力・お問合せ

最上義光公没後400年記念事業実行委員会
事務局(山形市観光物産課内) tel.023-641-1212(内線425) fax.023-641-1899 フェイスブック 
最上義光歴史館
山形県山形市大手町1-53 tel.023-625-7101 fax.023-625-7102

 


 

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