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かおり風景100選「羽黒山南谷の蘚苔と杉並木」



いま、山形から・・・ 山形にある日本百選 かおり風景100選 芭蕉も訪ねた羽黒山南谷の蘚苔と杉並木

 月山、羽黒山、湯殿山からなる出羽三山は、開山1400年の歴史を刻む山岳信仰の霊場です。江戸時代には、一生に一度は、西の伊勢神宮参りと東の出羽三山参りをするといわれたほど、古くから多くの参拝者が訪れています。俳聖松尾芭蕉も「奥の細道」の旅で、羽黒山に6日間程滞在し、月山、湯殿山にも訪れました。

 月山の残雪、羽黒杉、霊山の空気が独特の雰囲気を感じさせる羽黒山。南谷(みなみだに)蘚苔(こけ)と杉並木は、環境省の「かおり風景100選」に選定されています。

 

修験道の聖地 羽黒山
山頂にある、出羽三山開祖の蜂子皇子のお墓。東北で唯一の皇族のお墓といわれている。

 出羽三山は、三十二代崇峻(すしゅん)天皇の第一皇子であった蜂子はちこ 皇子により開かれたと伝えられています。蜂子皇子は、政争を逃れ、推古元年(593年)に出羽国の由良(現鶴岡市)の港に上陸し、三本足の大烏に導かれるまま羽黒山に登拝、その後、月山と湯殿山を開いたのが出羽三山の始まりといわれています。以降、出羽三山は、羽黒派古修験道の霊場として全国に広がりました。

 羽黒山は、戦国の争乱の間に乱れたそうですが、江戸時代、それを立て直したのが、羽黒山五十世別当(べっとう)天宥(てんゆう)です。当時、徳川幕府は天台宗を最上位として、江戸の上野に東叡山寛永寺を建立しました。天宥別当は、寛永18年(1641年)に江戸に上り、寛永寺の天海僧正(てんかいそうじょう)の弟子となり、それまでの宥誉(ゆうよ)という名から天海の天の一字を貰い、天宥と改名しました。天宥別当は、真言宗が中心であった羽黒山を天台宗に改宗し、天海の勢力と結び羽黒山の繁栄を図りました。

NPO法人蜂鼓山社中理事長 星野博さん。蜂子皇子に因む団体名で三山の歴史文化、自然環境を次代へ継承する活動を行う。芭蕉の句碑の前で。

 当時赤土だった参道に石段を整え、両側に杉を植え山を整備したのも天宥別当です。

 天宥別当は、羽黒山復興のために尽力しましたが、湯殿山との間の争論に敗れるなどして、結果、伊豆新島に流刑になり、延宝2年(1674年)に生涯を終えました。新島では、毎年6月8日に天宥別当の墓前祭が催されますが、この羽黒山手向(とうげ)地域からも参加しており、新島と羽黒の交流がはじまって、来年(平成26年)で30周年を迎えるそうです。

 元禄2年(1689年)には、俳聖松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で弟子の河合曾良を伴い、羽黒山を訪れています。

 やがて、明治維新を迎え、明治元年(1868年)に神仏分離令が発せられましたが、羽黒修験道の精神は今日に受け継がれています。

 

参道と杉並木。開山以来1400年以上、幾人の修験者、参拝者がここを登ったのだろう。

 羽黒山山頂へは、随神門から全長約1.7キロメートル、一の坂、二の坂、三の坂と呼ばれる参道の2446段の石段を登ります。参道には樹齢350年から600年を超える580本以上の杉並木が続き、霊山独特の雰囲気が漂います。この参道の杉並木は国の特別天然記念物に指定され、世界的な旅行ガイドブックである「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」の三つ星(わざわざ旅行する価値がある)の地として、最近は外国人観光客も多く訪れるようになりました。

杉木立にひっそりと建つ国宝五重塔。

 一の坂の上り口、杉木立の中には東北地方では最古の塔といわれる、国宝五重塔が建っています。この五重塔は、平安時代中期の承平年間(931~938年)、平将門の創建と伝えられ、山形藩主最上義光もがみよしあきが慶長13年(1608年)に大修理を行っています。

 弁慶が、羽黒山に奉納するために、義経からつかわされた油をこぼしたといわれるほど急で「弁慶の油こぼし」とも呼ばれる二の坂を登り、そして「もう着いただろう、もう着いただろう」と三回思う坂ともいわれる最後の三の坂を登りきると、ようやく山頂に到着します。

 三の坂を登り、もう少しで山頂というところに、ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン二つ星(寄り道する価値がある)の斎館があります。もとは華蔵院けぞういんといい、元禄10年(1697年)に再建されたもので、明治の神仏分離の際、山頂までの寺院の中で唯一残った建物です。現在は、参拝者の宿泊所、食事処として利用されており、山の幸を中心とする上品で洗練された精進料理をいただくことができます。(宿泊・料理 要予約)

はすの花の図柄。石段には盃やひょうたんなど33個の図柄が彫られていて、全部見つけると願いが叶うという。

 山頂には、月山、羽黒山、湯殿山の三神を祀る三神合祭殿さんじんごうさいでんが建っています。それは、高さ28メートル、茅葺屋根の厚さ2.1メートルと、その豪壮な姿に圧倒されるほどの迫力があります。昔から、月山、湯殿山は冬期間、積雪で登拝できないため、羽黒山に三神を祀ったと伝えられています。本殿は度重なる火災にあい、現在の社殿は文政元年(1818年)に再建されたものです。重要文化財に指定され、ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン二つ星でもあります。山頂には、他にも、鏡池、霊祭殿、鐘楼と大鐘など多くの山岳修験の歴史を伝えるものがあります。山頂には自動車でも行けますが、杉木立の参道2446段の石段を一段一段登って、霊山の息吹と古の修験者の思いを感じてみてはいかがでしょうか。

 

「かおり風景100選」羽黒山南谷の蘚苔と杉並木
参道より横道に入り、約500メートル先に南谷がある。

 環境省の「かおり風景100選」に選ばれた羽黒山南谷は、天宥別当が、山頂の寺々を、火災による本社への延焼を防ぐために移築した場所です。

 寛文5年(1665年)に、天宥別当が南谷に建てた、住まいでもある別当寺は、長屋門が60メートル、建坪が700坪もあったといわれています。

芭蕉が逗留した当時の建物のジオラマ。いでは文化記念館にて展示。

 芭蕉が南谷を訪れた際、天宥別当が建てた別当寺は火災によりすでになくなっていましたが、寺院を廻らして造られた泉や庭に、芭蕉は感嘆したといいます。ここで、天宥別当の業績を偲んで追悼の句を詠んでおり、それは南谷の石碑に刻まれています。

 有難や雪をかほらす南谷
涼しさやほのみか月の羽黒山

寺院を廻らす池の跡。

 現在、南谷には芭蕉の石碑と池の跡が残るのみで、かつての繁栄はうかがい知ることはできませんが、静寂の中に、今なお生い茂る蘚苔と高くそびえる杉木立とが、当時の面影を偲ばせてくれます。天宥別当が、そして芭蕉も感じたであろう、杉、蘚苔、残雪、風の香りが、平成13年(2001年)「かおり風景100選」に選定されたのです。

蘚苔は、芭蕉も訪れた頃の、梅雨の時期が美しい。

 季節的には、梅雨の時期が一番蘚苔が美しく、杉の香りも漂います。ただ、石畳ではなくぬかるみますので、足下には十分ご注意ください。また、参道からかなり奥に入りますので、初めての方はガイドさんに案内していただく方が歴史も学べるのでおすすめです。

 一度は荒れ果ててしまったこの地を南谷跡地として整備したのが地元の方々です。門前町宿坊街手向が形成されたのは天宥別当のおかげであると今も感謝し、昭和13年からずっと地元の小学生がこの南谷を清掃しているそうです。

 なお、「いでは文化記念館」には、芭蕉が逗留した当時の建物を再現したジオラマが展示されています。

 

いまも続く山伏修行
出羽三山神社三神合祭と鏡池。(いでは文化記念館提供)

 明治になり、神仏分離の令が発令され、修験や僧侶は神職に転じたものがいるなど、羽黒山も大変な時期がありました。

 現在、出羽三山は人々の信仰を集め、多くの参拝者が訪れ、羽黒山では修験の山として山伏の修行が行われています。

山伏修行。(いでは文化記念館提供)

 山伏修行は死と再生、つまり生まれ変わりの行であり、十界の行=断食、水断ちなど厳しいものです。白装束を身にまとい、俗世界から離れて出羽三山の自然、修験道を学びます。この山伏修行はどなたでも体験できますので、体験を希望される場合は「いでは文化記念館」にお問合せください。新しく生まれ変わった自分に出会えるかもしれません。

山伏修行体験塾。(いでは文化記念館提供)

 また、月山、羽黒山、湯殿山にはそれぞれ御縁年の年として、開かれた年の干支にあたる年に登るとご利益があるとされています。月山は卯年、湯殿山は丑年、そして、羽黒山は午年で、来年の平成26年がそれにあたります。さらには、出羽三山全体は丑年が御縁年にあたり、その年にお参りすると12年分のご利益があるといわれています。

 御縁年に限らず、修験道の聖地羽黒山に登り、修験の歴史を感じながら、杉の香りを体感してみてはいかがでしょうか。

 

お問合せ・取材協力

いでは文化記念館 tel.0235-62-4727 (ガイド、山伏修行体験塾問合せ)
NPO法人 出羽三山応援隊 蜂鼓山社中 tel.0235-62-4269
斎館(羽黒山参籠所) 宿泊・料理 予約制 tel.0235-62-2357
出羽三山神社

 


 

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  • 平成25年6月7日掲載

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