1991年に新設の東北芸術工科大学のマークを依頼された。それが縁となって、教育にも関わるようになった。以来16年の長きに渡って、東京と山形を往復している。一年に35往復として、16年だから560往復だ。1往復を7時間で計算すれば、3920時間も新幹線に乗っていたことになる。一日8時間労働とすれば、490日分に当る。
本業がグラフィックデザイナーだから、東京での仕事を本妻に例えれば、山形での教育という愛人の元にせっせと通ったことになる。
言わば二重生活の16年であった。いや、教育上よろしくない例えだとオシカリを受けそうではあるが、実際に仕事と教育の板挟みにあって、どちらも本気で愛しているから、実感として、この例えがピタリと当てはまる気分なのである。元々、教育に関係することになった理由が、全国的に見ても当時の教育者に現役のバリバリのデザイナーがタッチしていなかったことにある。それを指摘したら、ではアナタが実践してください、となった。

東京生まれ、東京育ちの私には「ふるさと」がない。開学の頃は一年生しかおらず、実にのんびりとした空気と環境であった。新幹線で宇都宮を過ぎる頃から景色が一変する。東北の風景は季節が鮮明に輝く。仙台から仙山線で山形に入ると、別世界が待っている。宿舎の温泉に入るのが毎週の愉しみになった。日常の忙しさから逃れ、息抜きにも気分転換にもなった。ふるさとが出来た気分だった。
もっとも、カルチャーショックも多かったのも事実である。当時は夜の7時を過ぎると山形駅前でも真っ暗になった。駅から大学にタクシーで通っていたが、ある雨の日の帰りにタクシーをよんだ。いくら待っても来ない。帰りの電車の時間を逃すと1時間も待たされることになるから気が気ではない。催促の電話をいれる。
「あの、まだ来ないんですけど・・・」
「雨が、ふってからヨ」実に、ブッキラボー。
「何時ごろ来てくれるの?」ココロボソイ。
「わッがんね!」な、な、なんなんだ!?
二年目からは新幹線も開通し、自分の車に乗り始めたから、ずいぶんと改善されたが、その分だけ学生も増え続けて、気が付いたらすっかり、どっぷりと、教育にハマッテいた。せっせと山形通いをする私に、東京の人々は「よほど山形に楽しいことが待っている」と勘違いし、山形の人たちは、大学から真直ぐサッと帰ってしまう私を見て、「やはり東京の魅力には勝てない」と勝手な嫉妬をする。
山形に通うようになってから、東京の私の周りに山形関係者が大勢いることが判明した。まず、長年通っている床屋のオヤジが寒河江の出身だった。ごく親しい仲間が山形県出身であり、長年仕事をしてきたクライアントの担当者も山形だった。そして、会計事務所の所長までが山形の出身者であった。それまで山形には全く無縁と思っていた私は、実は山形出身者に囲まれていたのだ。山形とふかーい「縁」で結ばれているようなのである。
最も驚いたことは、父のことである。私の父は日本画家で今年99歳になるが、30代の頃、初めての弟子が山形県出身だった縁で、父の第一回の個展を山形で開催したと言う。
やはり、私の「ふるさと」は山形であった。