北山原(ほくさんばら)殉教遺跡


昨年11月、日本のキリシタン迫害時代に信仰を守るために命を捧げた「ペトロ岐部と187殉教者」が、聖人に次ぐ「福者」に列せられました。福者とされたのは江戸時代初期に全国で殉教した188名。うち山形県米沢市の殉教者は53名。全国で最も多い人数です。なぜ、雪国の米沢でこのように大規模なキリシタン殉教があったのでしょうか。

NHK大河ドラマ「天地人」の主人公「直江兼続(なおえかねつぐ)」のゆかりの地として「愛」ののぼり旗がはためく米沢市。この地には、歴史の表舞台に登場する武将たちとほぼ同じ時代に、多くのキリシタンが殉教した史実があります。殉教の地の一つである「北山原殉教遺跡」を市立米沢図書館の青木昭博さんとともに訪ねました。
北山原殉教遺跡は、米沢市役所にほど近い住宅地の中にひっそりと存在していました。今でこそ、こんな市街地でと違和感を覚えますが、当時の北山原は米沢藩の刑場。その後、刑場は移転されて北山原はただの荒地となり、厳しい取締で信者は絶え、殉教は人々の記憶から忘れ去られることとなりました。

米沢藩内には、一説によると1万人ものキリシタンがいたと言われています。米沢にこれほど多くの信者がいたことの背景には、厳しい弾圧を逃れて流れ込む信徒が激増したためとも言われています。
初代藩主上杉景勝の頃には、信仰に対して寛容な態度を取り続けていました。禁教令をせまる幕府に対しては「当領内には切支丹(きりしたん)は一人もござなく候」と答えたと伝えられています。しかし、二代藩主定勝の頃になると、幕府の弾圧はいっそう厳しいものとなります。徳川の治世も安定し、上杉家を安泰にしていくためには、幕府に従わざるをえない状況になっていました。藩は、ついに、キリシタンの弾圧に踏み切ることにしたのです。
甘粕右衛門(あまかすうえもん、洗礼名ルイス)は米沢藩の上級武士であるとともに、信者の中心的存在でした。家老の志駄修理(しだしゅり)は、甘粕らキリシタン家臣をかばおうと改宗を勧めましたが、信仰心篤い彼らは改宗より殉教を望みました。
甘粕家一門の信者14名は、寛永5年12月18日(1629年1月12日)未明、聖母像を先頭に粛々と処刑場へ向かい、祈りを捧げたのち幼い者から順に殉教していきました。
殉教を伝える記事は、米沢藩の正史である「上杉家御年譜」にはわずか数行の記載にとどまるのみです。北山原での殉教の様子を詳細に知ることができたのは、当時会津若松に身を隠していたポーロ神父がバチカンに送った報告書が残されていたためです。32枚にわたる報告書には、殉教者の布教活動や信仰生活、米沢藩の政情までも詳細に記されていました。ポーロ神父は、途中の事故・災害等を考慮し、同じ内容の報告書を3部作成し、それぞれ別便でバチカンに送りました。うち2部が無事に到着し、現在も保存されています。

時は流れ、米沢でのキリシタン殉教の記憶も途絶えて久しい昭和3年(1928年)、シュインテック神父が米沢に赴任してきました。シュインテック神父は、バチカンに残るポーロ神父の報告書を基に調査を行い、六地蔵の石碑が建つ荒れ地が殉教の地「北山原」であることを確認しました。翌年には市民有志によって跡地が整備され、十字架が建てられました。また、この話に感動したドイツの信者からキリスト像、聖母マリア像、聖ヨハネ像が贈られ、現在に残る殉教遺跡の姿となりました。
北山原殉教遺跡には誰でも訪れることができます。減封された雪国米沢での苦しい生活を助け合いの力で生き抜き、そして殉教した人々。木立の中に建つ十字架を見上げながら遠い歴史に思いを馳せてみました。

・ カトリック米沢教会