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おらほの自慢vol.22


●のし梅は薬だった?

 のし梅の起こりをたどると、なんと江戸時代までさかのぼります。山形城主の御典医(ごてんい)だった小林玄端が長崎での遊学中、中国人から梅を原料とする秘薬の製法を伝授され、気付け薬として作ったのがはじまりと伝えられています。それを笹の葉に乗せて民間薬として売ったところ、大変よく売れたとのこと。当時、山形市内で薬屋を営んでいたというお宅に現在も伝わる文献(※1)には、のし梅の祖とみられる「甘露梅」という名でその作り方が残っています。そこには「梅をおろして汁をとり、瀬戸物に入れ天日で干す」といった内容が記されています。確かに現在のお菓子であるのし梅とはちょっと違うようです。お菓子として食べられるようになったのは明治時代あたりからと考えられており、砂糖をふんだんに使ったものであることから、この頃の高級な嗜好品だったのではないでしょうか。ちなみに、明治時代の俳人である正岡子規の食卓には各地域の名産品とともに山形ののし梅が上ったという記録(※2)があります。こののし梅は現代でいう「おとりよせ」されたものだったのでしょうか。正岡子規は病弱であったといいますから、もしかしたら薬としての意味もあったのかもしれません。

甘露梅(かんろばい)の作り方

のし梅の祖とみられる甘露梅(かんろばい)の作り方。当時は‘のされて’いない?

「乃し梅本舗 佐藤屋」七代目社長の佐藤松兵衛さん

「私が子どもの頃、のし梅は屋根の上で乾かしていましたよ」と「乃し梅本舗 佐藤屋」七代目社長の佐藤松兵衛さん。

●おいしいのし梅のできるまで

おいしいのし梅のできるまで

 時代とともにのし梅も変わり、竹の皮に乗った皆さんご存知の現在ののし梅について、文政四年創業の「乃し梅本舗 佐藤屋」におじゃまし、その製造過程を拝見してきました。
 材料は山形県産完熟梅、砂糖、水あめ、寒天とごくシンプル。砂糖、寒天、水を煮詰め、梅を加えてさらに煮詰めたものをガラス張りの型に流し込みます。それを30〜40時間かけて乾燥させ、均等に切ったものを竹の皮に貼り付けて完成です。山形以外の地域でものし梅は作られていますが、他の地域と山形の違いは、他の地域ののし梅は羊羹(ようかん)のように棒状に作って薄く切っていくのに対し、山形ののし梅はあらかじめ食べる薄さにしたものを長方形に切っているのです。これはより弾力のあるのし梅ができる製法なのだそうです。こうしてできあがったのし梅はさわやかで上品な味に加え、透き通って涼しげな梅の色をした、目にも美しいお菓子です。

おいしいのし梅のできるまで

一枚一枚に孟宗竹の皮を張る。竹の皮には殺菌力があり、食べるときに、はがしやすいという利点も。

おいしいのし梅のできるまで

ガラス張りの板に、梅などを煮詰めたものを流し込む。きれいに平らになるよう、重ねた板と板の間に紙を挟んで微調整。

おいしいのし梅のできるまで

乾燥させたのし梅を重ね、一気にカット。これも手作業で。

乃し梅本舗 佐藤屋

のし梅は1日に約5,000~6,000枚製造される。夏場が特に人気だとか。

のし梅

【参考文献】
※1…『家伝秘法調合録』黒田玄仙
※2…『墨汁一滴』正岡子規

●梅と紅花の切っても切れない関係

 ところで、梅と山形県の花である紅花には深いつながりがあるのはご存知でしたか。
 江戸時代、紅花商人で栄えた山形。その紅花から紅を取り出すのに必要とされたのが梅の酸であり、これを烏梅(うばい)といいます。そのため、山形では紅花とともに梅の栽培が盛んで、山形は梅林の多い城下町であったとか。その梅からできたのし梅というのは、山形の歴史がぎっしり詰まっているお菓子だったのですね。

●のし梅のいま

 お茶のお供として山形県民にはおなじみのお菓子ですが、その食べ方も時代を経て変化しつつあるようです。茶席でのお菓子として出されるようになったとか、関西のお料理屋さんの中にはお吸い物に入れたり、おせち料理に梅の花の形にかたどって添えたりするところもあり、お菓子としての食べ方にとどまらないようです。江戸時代に薬として誕生したのし梅は、時代とともに変化し、より多くの場でその魅力を発揮しています。



 
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