最近指定された文化財
最近指定された文化財 |
山形県内で近年、新たに指定を受けた文化財を紹介しています。
|
(平成30年5月8日指定) (形 状) 如来形坐像。肉髻、螺髪(切り付け)、耳朶不貫、三道彫出、衲衣をつける。 (製作年代)10世紀頃(平安時代) (構 造) 木造。トチノキ材。一木造。彫眼。漆箔。 頭体幹部は一材から彫出し背面および像底から内刳りし、背板を貼る。 左手は手首を含んで前膊部一材矧ぎ付け。右手は肘、手首で各矧ぎ付け。 両脚部は一材矧ぎ付け。 (寸 法)像高 88.0cm、髪際高 73.7cm、肘張 50.3cm、膝張 69.4cm。 (特 色) 面相は四角く、地髪部を大きくして額を狭くし、また肉髻部と地髪部の境を小さくす る、衣文線の彫が浅い、など平安時代中期・10世紀頃の表現様式が見えます。また構造も一木造で背刳りのみとし、体部と脚部の結合を体部の丸みを残して組む技法で10世紀頃の特徴を示しています。 (指定の意義) 本像は平安時代中期、10世紀に遡る遺品であり、本県の仏像の遺品としては数少ない年代の遺品の一例とすることができます。本像の作行は時代の様式に則る優れたものです。その構造は体部と脚部の接続面を曲面とするという、造像の「一木性」を残す構造であり、本県地域での造像技法の伝播と変遷の貴重な資料となるものです。 修理銘には天長元年(824)の円仁造立とあり、平安時代の天台宗の展開の中での本県地域(出羽国)の位置づけの解明の手掛かりの一つになり、当地域の平安時代中期に天台宗の浸透があった証となるものです。これらの点から県指定する意義のある作品であると言えます。
所有者:薬師寺薬師堂 代表役員 佐竹 義弘 公開の有無:無
|
|
(とみやまばとうかんのんどう つけたり くうでん1き、むなふだ8まい) (平成30年1月12日指定) (形 状)組物二手先、二間繁垂木、寄棟造、屋根銅板葺 (製作年代)江戸時代後期(寛政9年(1797年)) (寸 法)正面桁行五間、側面梁間四間 (特 色) 当堂は、その名が示すとおり馬頭観音を本尊とする最上三十三観音第三十一番札所でもあります。当地は古くから馬産地として知られ、「小国駒」と呼ばれる当地産の馬は新庄藩内はもとより他領にも出荷されており、当堂の馬頭観音の信仰もこれに関連づけて説明されています。 縁起によれば、貞観5年(863年)に慈覚大師が当地来訪の折、名馬の産地であることから馬頭観音を安置したことが創始とされています。 新庄藩主戸沢氏による信仰も篤く、6代、8代、9代、11代の合計7度にわたる参詣の記録が残ります。 特徴として、向拝柱正面に2つの獅子の木鼻と両脇に鳳凰の木鼻があります。特に造りがしっかりとした鳳凰の木鼻は全国的に見ても貴重なものであり、当堂が所在する地域で活躍した大工集団「小国大工」の名工「出羽勘七」の手になるものと考えられています。 また、内陣中央には安置されている宮殿はもとは当堂のものではありませんが、観音堂の建立に合わせて移されたものと考えられています。棟札8枚は、当堂の沿革がわかる貴重なものです。 (指定の意義) 当堂は比較的規模が大きく、様式技法が正確であり、建築年代も明らかで大 幅な改変がないことから江戸時代後期の寺院建築として価値があります。加えて歴代新庄藩主の参詣の場であり、新庄藩は馬産による国づくりを目指した証となるものです。さらに地域の名工「出羽勘七」による特異で類例の少ない鳳凰木鼻によって職人の流派やその繋がり、社寺の地方的特徴などを考究することができることから学術的にも重要なものです。今に信仰の生きる観音堂としてはもとより、建築史、文化史の面からも価値があります。これらの点から県指定する意義のある作品であると言えます。
所有者:東善院 奥山 東順 公開の有無:有
|
|
(けんぽんちょしょくじぞうじゅうおうぞう) (平成30年1月12日指定)
(形 状)絹本。著色。掛幅装。 (製作年代)14世紀前期 (特 色) 高麗仏画の優品。諸尊の顔は髪、眉、髭などを細い線を引き重ね、淡い暈しを施すなど丁寧に表現されています。着衣には鮮やかな赤が目立つ一方、朱の具、白群、白緑などの中間色も多用され、それらが金泥による細やかな文様によって装飾されており、高麗仏画らしい華やかな画面となっています。 画面構成は上部中央に地蔵菩薩を大きく描き、地蔵菩薩の台座の前には合掌する二菩薩が左右対称に配されています。同じように四天王も地蔵菩薩の周りを取り囲んでおり、向かって右上で宝塔を掲げる多聞天の下に道明が描かれています。その下に亡者の審判を行う十王が宝冠をつけ笏をとる姿でV字形に4体ずつ配されています。その下3段には上部よりも一回り小さい人物が描かれており、そのうち上段と中段には十王の従者と思われる人物が描かれ、最下部には武器を手にした獄卒が描かれています。 本図の地蔵菩薩は頭巾を被る「被帽地蔵」と呼ばれ、高麗仏画の他の地蔵菩薩と比べると耳を表さない点が珍しく、加えて宝珠の持ち方、胸部を覆う衣、袈裟、台座なども他には見られない特徴を有します。これらの特異な図像の特徴はチベット仏教の流入によるものではないかと推測されています。 制作者は不明ですが、宮廷の仕事を受注する絵師の手になるものであり、宮廷様式に分類されるものと考えられています。 また、本図における諸尊の配置の窮屈さは、原本よりも小さな画面への模写であるためと考えられています。写しであるということは本図の価値を減ずるものではなく、特異な図像を持つ地蔵十王像をこの世に残したという点が重要です。 本図は、渡来品であり我が国の文化にとって意義のあるものです。加えて、高麗仏画の特徴である華麗な装飾美を備えている点、地蔵十王像の中でも特異な図像を有し高麗仏画の成立における西域の影響を示唆する点は我が国の文化史上貴重なものであるとともに、題材、品質、形状又は技法等の点で顕著な特異性を示すものであります。これらの点から県指定する意義のある作品であると言えます。
(指定の意義) 本図は、渡来品であり我が国の文化にとって意義のあるものです。加えて、高麗仏画の特徴である華麗な装飾美を備えている点、地蔵十王像の中でも特異な図像を有し高麗仏画の成立における西域の影響を示唆する点は我が国の文化史上貴重なものであるとともに、題材、品質、形状又は技法等の点で顕著な特異性を示すものであります。これらの点から県指定する意義のある作品であると言えます。 【高麗仏画】 その名の通り高麗(935~1392年)において制作された仏教絵画。美術史的に極めて価値の高い絵画であるが、現在確認されている作品数は約165件と多くはない。現存する高麗仏画の制作年代は13世紀後半から14世紀に集中している。
所有者:華蔵院 代表役員 布施 智典 公開の有無:東京国立博物館に寄託中
|
|
附 雛道具揃覚 一通」 (くまもとはんほそかわけくようもん・しょうないはんさかいけかたばみもんいりひなどうぐ 1しき つけたり ひなどうぐそろえおぼえ 1つう) (平成30年1月12日指定)
(形 状) この雛道具は庄内藩主6代酒井忠真に輿入れした熊本藩細川家の密姫が実際に使用した調度品のミニチュアであり、この雛道具はすべてが黒漆に金蒔絵で酒井家の酢漿草紋と細川家の九曜紋が描かれています。 またそれぞれの金具の細工も細やかで凝ったものです。 中でも婚礼の際に一番大切にされた貝桶には、195枚の貝合が入っており、蛤の貝殻に金箔を貼り、縁には胡粉を使ったおきあげが施され、絵柄は花鳥風月や源氏物語などが繊細に描かれています。 (製作年代)江戸時代中期 (寸 法)別紙一覧表に記載 (特 色) 庄内藩主6代酒井忠真に輿入れした熊本藩細川家の密姫は細川越中守綱利の娘で、水戸光圀の姪に当たる人物です。 この婚儀は元禄2年(1689)4月のことで、この雛道具も当時のものと考えられています。明和8年(1771)の雛道具揃覚が残されており、その中には「特に大事な道具ゆえ、例え女子が生まれても決してこれは与えず、代々家に伝え置くように」との内容が記されています。覚書の目録の通りにすべてが現存しています。 (指定の意義) この雛道具一式は、蒔絵・金具ともに極めて高度かつ精緻であり、いわゆる雛人形付属の玩具的雛道具とは全く性質を異にし、大名家の婚礼調度の忠実な雛形と言えるものです。また、その内容について明和8年(1771)3月に記した覚書がともに伝わっています。このように制作年代が江戸時代中期に遡り、所用者が明確であり、なおかつ伝来の所以を記した書類が添う例は他になく、美術工芸的価値はもちろんのこと、資料的価値も極めて高いものです。この雛道具は制作年代の定かでない遺品の多い雛道具の研究上、基準資料として第一に挙げるべき作品であると考えられます。 これらの点から県指定する意義のある作品であると言えます。
所有者:公益財団法人致道博物館 代表理事 酒井 忠久 公開の有無:有(企画展) |
|
(かんのんさんぞんかけぼとけ) (平成29年4月28日指定)
(形 状)鏡面に金銅製の聖観音像、天部形像、軍荼利明王像を貼付した懸仏。 奉納者と思われる名(「藤原義長」)を刻んだ銅版が付いている。 (制作年代)鎌倉時代。 (作 者)不明 (寸 法)鏡面 外径 43.4cm 内区径 35.9cm (特 色) 鎌倉時代の懸仏として、その大きさと製作の優秀さから貴重なものです。特に貼付されている仏像はそれぞれに優れた作のものです。 また、鏡面に貼付される仏像が立体化していく過渡的作例として、懸仏の形式の変遷の資料となる貴重なものです。仏像は、聖観音-妙見菩薩‐軍荼利明王というはぐと権現の本地仏を表しており、現在のところその最古の資料となります。 この懸仏は鎌倉時代後期に改装されて現状に至ったと想定できるものなので、羽黒権現の本地仏は鎌倉時代後期に設定されたのではないかと考えることができる歴史的価値も有しています。 また、聖観音菩薩の形態からは鎌倉時代前期の羽黒山は天台宗の影響が及んでいたことが考えられるので、この懸仏は羽黒山信仰の成立や変遷の歴史の解明にも役立つものです。 所有者:鶴岡市 個人 公開の有無:無 |
|
(ひがしほんがんじごさいけんにつきけんじょうぼくとしてごえいどういちばんごこうりょうならびにおんばしらやまだしうんぱんのず つけたり こもんじょ2つう) (平成29年4月28日指定)
屏風 (材質)紙 (形 状)著色屏風六曲一双 (制作年代)江戸時代(享和2年頃) (作 者)不明 (寸 法)左隻 149.5×332.0cm 右隻 149.5×331.0cm (特 色) 天明8年(1877)の京都大火で東本願寺の御影堂・阿弥陀堂が焼失し、翌寛政元年(1789)からの10年に及ぶ再建に際し、現在の河北町の名主工藤儀七を中心とする最上門徒の活躍ぶりを描いた屏風です。 屏風は、左隻・右隻ともに上下2段に分かれて描かれています。上段には現在の真室川町の山中から伐り出したケヤキの巨木を、塩根川、鮭川、最上川を下して酒田湊まで運ぶ様子と、そこから船で大阪まで輸送し、淀川を上って伏見を経て京都七条の東本願寺へ運搬する様子が描かれています。 古文書 1通 享和3年9月6日 工藤儀七覚書(長崎来円寺・御使僧宛) (材質)楮紙 (寸 法)全体 14.3×193.0cm 1通 享和4年3月2日 懸鼓庵書状(工藤儀七宛) (材質)楮紙 (寸 法)全体 16.5×84.0cm 所有者:河北町溝延 工藤益太郎氏 公開の有無:無 |
阿弥陀如来坐像
右脇侍菩薩立像
左脇侍菩薩立像
|
(もくぞうあみだにょらいざぞうおよびりょうわきじぼさつりゅうぞう)」 (平成28年12月6日指定 寒河江市大字平塩 平塩寺)
(形 状)阿弥陀三尊像 (制作年代)鎌倉時代後期から南北朝時代(14世紀前半頃) (作 者)不明 (寸 法)中尊 阿弥陀如来坐像 像高70.1cm 左脇侍菩薩像 像高81.4㎝ 右脇侍菩薩像 像高81.8cm (構 造)木造寄木造 (特 色) 中尊を坐像、脇侍を立像とする三尊形式であり、鎌倉時代までに多く見られる形式である。また、この三尊像は全体に落ち着いたかっちりとした表現を見せ、衣文もゆったりとしたふくらみを表しており中央の仏師の作風を示しています。 中尊像は頭部が大きくやや背を丸めて首を前に出し、肩幅が広く坐高が短い箱型の体形であり、鎌倉後期から南北朝期以降に見られる様式です。南北朝期の特徴である像内に像心束、前後束を残す珍しい構造です。 脇侍像については、高髷であること、天冠台に無文帯が見られること、条帛の端を下から出すことは鎌倉時代の様式です。また、天冠台に髪を絡ませることは鎌倉時代後期の様式です。 この三尊像は隣接する平塩熊野神社境内にあった「阿弥陀堂」にあったといわれ、熊野権現の本地仏であったと考えられています。さらに本像の遺る平塩寺は鎌倉時代に醍醐寺の勢力によって開基されたと考えられ、真言宗醍醐寺ゆかりの寺院の遺品としての歴史的価値を有するものです。
所有者:宗教法人 平塩寺 代表役員 渡辺良仁 公開の有無:有(事前にお問い合わせください) |
紙本著色徒然草図 六曲屏風 上段 右隻 下段 左隻
|
(しほんちゃくしょくつれづれぐさず ろっきょくびょうぶ)」 (平成28年3月25日指定 米沢市丸の内 米沢市上杉博物館)
寸 法 両隻 たて116.4㎝×よこ269.6㎝ 制作年代 江戸時代中期(17世紀中頃~後半) 作 者 不明 特 色 鎌倉時代末期、兼好法師によって書かれた「徒然草」の全244段から28の説話を選び、一話に一図ずつ人物や情景が描かれています。右隻、左隻それぞれに14場面が描かれており、「徒然草」を題材とする絵画作品は全国的にも少ない上に、本屏風のように28場面を描いている屏風は他に例がありません。さらに、「徒然草」の中から内容や情景が類似する章段を集めて画面に配するという工夫が凝らされており、見ごたえがあります。 また、絢爛たる衣装をまとった女性たちが登場する王朝風の場面が多く見られ、屏風全体から華麗な印象を受けます。こうした貴族の世界に加えて、武士の世界や庶民の世界、僧侶の世界が混然となって「徒然草」の文学空間が構成されています。 「徒然草」を題材とする屏風のうち、17世紀に描かれた本屏風は最も古い作例のひとつであり、我が国の文化史上貴重な資料です。 作者は特定できませんが、表現技法の豊かさや描写力の確かさは優れた水準に達しており、絵画作品として高い観賞価値があります。 また、金雲を巧みに使って多数の場面をバランスよく配置する優れた構図感覚と、金雲や地面に金砂子と金の切箔を使用して画面に豪華さと重厚さを与える優れた技法が見られます。
所有者:米沢市 公開の有無:お披露目展示 平成28年4月16日(土)~5月15日(日) 米沢市上杉博物館常設展示室上杉文華館 問合せ先 米沢市上杉博物館 TEL 0238-26-8001 |
舘山城跡(全景)
館山城跡(山城虎口)
|
(平成28年3月1日指定 米沢市大字舘山ほか)
面積 63,367.29㎡ 概要 (1)特色 戦国大名伊達家が勢力を拡大した天正15~19年(1587~1591)にかけての中心的な城館跡です。山城と山麓居館跡が良好な状態で残り、陸奥国南部の有力大名の城館の構造だけでなく、中世社会の動向を知る上で重要なものです。 (2)説明 米沢盆地西縁の丘陵地の東端、小樽川と大樽川の合流地点付近の標高310~330mの丘陵先端に立地する山城と山麓部の館跡から成る城跡です。伊達家の正式な歴史書である「伊達治家記録(だてじか(け)きろく)」に見える舘山城と推定されています。山城は土塁(どるい)や堀切(ほりきり)で区画された3つの曲輪(くるわ)から成り、全長は約320mです。米沢市教育委員会の発掘調査の結果、伊達家が治世にあたった16世紀代と上杉家の米沢入封(にゅうぶ)直後の17世紀前半の遺構があることが判明しました。 山麓部の居館群は、米沢市教育委員会による発掘調査で16世紀代の遺構が検出され、舘山東館では掘立柱(ほったてばしら)建物や庭園の可能性のある池状遺構、井戸跡等が検出されています。
用語説明 土塁:防御のための土手 堀切:尾根筋を切断した堀 曲輪:土塁などの防御施設で囲まれた平坦部 掘立柱建物:地面に穴を掘り、そこに柱を立てた建物
|
嶋遺跡(遠景) 青線:既指定地 赤線:追加指定地
|
(平成28年3月1日追加指定 山形市嶋北)
面積 8,845.00㎡(追加指定)
追加指定について 打込式の柱によって構築される建物群を中心に、その周辺の低地部からは各種木製品が多量に出土しており、古墳時代後期(6世紀後半)の東北地方における集落構造や生活様式の復元が可能になる稀有な遺跡です。新たに史跡内と同様の遺構や遺物が確認された部分が追加指定されました。
概要 低湿地に営まれた古墳時代後期の集落跡です。 昭和37~39年に山形県、山形市及び島遺跡保存会が、計6次の発掘調査を実施しました。その結果、住居跡や高床式の倉庫跡とともに、多数の土器・木製品が出土しました。特に木製品には、鞍(くら)・弓など古墳の副葬品と共通するものをはじめ、杵(きね)・梯子(はしご)・木製容器など多種多様なものがあり、東北地方における古墳文化期の集落跡として学術的な価値が高いとして、昭和41年12月19日に国の史跡に指定されています。 平成18年度に、山形市教育委員会が遺跡の内容確認のための発掘調査を実施したところ、既指定地の周辺部にも史跡内と同様の遺構や遺物が広がることが確認されたことから、平成22年2月22日に追加指定を受けています。
公開の有無:「嶋遺跡公園」として開放しています。 |
木造毘沙門天立像 |
(平成27年10月16日指定 山形市大字山寺)
時代は平安前期(9世紀)。
ケヤキ材の一木丸彫像。像高133.3cm。
内刳を施さないという構造と肩幅が広く、胸を厚く作り、脇腹を締め、さらに腰を太くするという量感を強調した体形です。首筋を覆うシコロと眉庇(まびさし)、頂上に宝珠形の飾りのついた兜を被り、顔は怒って見開いた目をし、口を閉じています。
腰をやや左にひねり、右足を広げて二邪鬼の上に立ちます。左手を曲げて前に出して掌に宝塔を載せ、右手は上にあげて戟(げき)を持ちます。
作風は重厚で同時代の遺品として優れ、平安時代前期の東北の天台宗の拠点としての立石寺の歴史的意味を考える上で資料的な価値を持ちます。
所有者:宗教法人 立石寺 公開の有無:有(根本中堂内陣) |
木造大日如来坐像 |
(平成27年10月16日指定 山形市大字平清水)
時代は平安中期(10世紀半ば~後半)。
像高110.9cm。
一木造で後頭部から内刳と体部の背刳をいう古様の構造であり、胸が厚く、脇を引き締め、さらに腹部の肉付けを厚くするという豊かな量感を示す体形です。 結跏趺坐し、法界定印を結ぶ胎蔵界の大日如来像です。垂髻(すいけい)を結い、山形の飾りのついた天冠台を彫出しています。彫眼で白毫相(びゃくごうそう)、三道を彫出しています。条帛(じょうはく)、臂釧(ひせん)、腕釧(わんせん)をつけています。
条帛の二重目を肩から外す形式は天台宗系胎蔵界大日如来像として資料的価値あり、全国的にも遺品が少ない中で、本像は最古の部類に入るものと考えられ、歴史的価値が高いものです。
所有者:宗教法人 平泉寺 公開の有無:無(大日堂秘仏) |
安国寺楼門
|
(平成27年3月24日指定 山辺町大字大寺) 構造形式は三間一戸の楼門で、1階2階とも桁行三間(けたゆきさんげん)梁間二間(はりまにけん)で、入母屋造。かつて茅葺ですが大正期に改修され、現在は鉄板葺です。 1階は礎石に円柱を立てて、腰貫(こしぬき)、内法貫(うちのりぬき)、頭貫(かしらぬき)で軸部を固め、前方の両脇間の正面と表参道を連子(れんじ)・格子(こうし)、側背面を横嵌板壁(よこはめいたかべ)で囲って仁王像を安置し、後方は吹き放ちとしています。柱頭の木鼻(きばな)は繰型(くりがた)で2階と形が異なり、先端が上方に尖っています。組物(くみもの)は出三斗(でみつど)、中備(なかぞなえ)は参道に面する柱間(はしらま)を蓑束(みのづか)とし、それ以外は蟇股(かえるまた)となっています。本柱の柱頭間に水引虹梁(みずひきこうりょう)を架け、この上に雲に松の浮き彫りが載っています。虹梁には渦若葉(うずわかば)が施され、渦が二つ連なるやや珍しい形式です。全体的に18世紀中ごろの様式といえます。また、1階はすべて格天井(ごうてんじょう)で、中央間に参道と接続する切石が敷かれ、仁王像のみ板敷きで、その他はたたきですが、改修されています。
2階は円柱に切目長押(きりめなげし)、腰長押、内法長押、頭貫で軸部を固め、木鼻は繰型です。組物は尾垂木(おだるぎ)を1段持つ三手先(みてさき)ですが、三手目の組物を出三斗にするという特異な形式となっています。中備は蟇股と蓑股です。2階の蟇股は、内部がかなり損傷していますが、波に紅葉の透かし彫りを入れてあります。軒支輪(のきしりん)を3段に設けて手が込んだところを見せています。四周に切目縁(きりめえん)と擬宝珠高欄(ぎぼしこうらん)を廻しています。妻飾りは妻壁を木連格子(きづれごうし)にして虹梁大瓶束(こうりょうたいへいづか)を配し、蕪懸魚(かぶらげぎょ)を下げています。
江戸期に2度火災に遭ったため、宝暦14年(1764年)に建立したと資料にありますが、当門の蟇股および木鼻の形状、渦若葉の絵模様から18世紀頃として大過なく、部材の経年状態とも矛盾しません。彫り物などの目立つ装飾は多くはありませんが、細かい部分で随所に意匠的な工夫がなされています。 創建当時の安国寺の意義を想起する上で重要な遺構であるといえます。 |
鳥海月山両所宮随神門 |
(平成27年3月24日指定 山形市宮町) 構造形式は、三間一戸の楼門で、1階は桁行三間(けたゆきさんげん)梁間二間(はりまにけん)、2階は桁行五間梁間二間で、入母屋造、銅板葺(もとは茅葺)です。 当社は江戸期に神仏習合していたため、本建物も「仁王門」として建てられましたが、明治期の神仏分離により仁王像を余所に移して随神像を配し、随神門となりました。
1階は礎石に円柱を立て、正面中央の2本柱のみ柱脚に礎盤とも異なる高さのある石造の台座を配しています。その表面には溝が彫られており、かなり珍しいものです。 両脇間は、側面は板壁、他は吹き放ちとし、後方の両脇間の正側面を格子で囲い随神像を安置しています。木鼻は獅子、象、獏などを配置し、組物(くみもの)は三手先(みてさき)、軒支輪(のきしりん)は2段に取り付け、この部分が2階の腰組(こしぐみ)となっています。柱の柱頭に、本柱間には冠木(かぶき)を、両側面は頭貫(かしらぬき)を、その他は水引虹梁(みずひきこうりょう)を架け渡し、波に龍の彫り物や中備(なかぞなえ)の蟇股(かえるまた)内には虎や兎の彫り物を配置しています。頭貫側面に木瓜(もっこう)型の枠とその中に鋸歯(きょし)状の模様を彫り、水引虹梁には渦若葉(うずわかば)を施しています。特に正面虹梁は、全体的に浮き彫りで葉脈まで表しており、特徴的な彫り方となっています。天井は鏡天井で、鳳凰、麒麟、鶴や亀の彩色画が描かれています。
2階は、組物は三手先、尾垂木(おだるぎ)を2段出し、中備は蟇股、軒支輪は2段となっています。木鼻は正面中央の2本の柱頭は鳳凰の彫り物であり、県内でも類例が少なく、注目すべきものです。 軒は二軒繁垂木(ふたのきしげだるぎ)、妻飾りは虹梁大瓶束(こうりょうたいへいづか)で波の彫り物を前包み上に置き、蕪懸魚(かぶらげぎょ)を下げて、鰭(ひれ)は草花の浮き彫りが施されています。
当門は、擬宝珠銘(ぎぼしめい)や古文書、渦若葉の模様、蟇股の意匠を含めた様式技法や部材の状態から、天明2年(1782年)の建立と思われます。様式技法、建築年代からも学術的に貴重で重要な文化財です。
|
おくのほそ道の風景地 三崎(大師崎) |
(おくのほそみちのふうけいち みさき(だいしざき))」 (平成27年3月10日指定 飽海郡遊佐町吹浦・秋田県にかほ市 象潟町小砂川)
三崎山は山形県と秋田県にまたがり、約3,000年前に鳥海山の噴火活動で猿穴(さるあな)溶岩が西に流れ下り海に至った場所です。成層火山のすそ野が海へと続くような地形は、火山国日本にあっても数えるほどしかありません。
三崎の名称は、観音崎(かんのんざき)、大師崎(だいしざき)、不動崎(ふどうざき)の3つの岬から成ることに由来し、南北に約1,200年前に慈覚大師が開削したとされる旧道が通っています。
旧道沿いには、大師堂(だいしどう)、五輪の搭、一里塚跡などがあり、旧道の石や岩は人々の往来ですり減り、歴史の古さを物語っているほか、地獄谷(じごくだに)、駒泣(こまな)かせなどの地名があり、大変な難所であったことを現在も伝えています。
元禄2年(1689年)6月16日、松尾芭蕉と弟子の曾良は、旅の目的地の一つである象潟(きさかた)(現秋田県にかほ市)を目指して吹浦(ふくら)(現山形県遊佐町)を出発し、雨の中、難所の三崎山を越えました。曾良随行日記には、「吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降リ出ル。一リ、女鹿(めが)。是ヨリ難所。馬足不通。番所手形納。大師崎共、三崎共云」と記されています。
三崎に残る鬱蒼としたタブ林を抜ける旧街道は、芭蕉らが訪ねた往時の面影を彷彿とさせるものであり、優れた風景を今に伝えています。その貴重な景観は、「おくのほそ道の風景地」を構成する優れた風致景観であり、名勝にふさわしい価値を有するものです。
|
この記事に対するお問い合わせ
- 担当課:文化財・生涯学習課
- 担当:文化財担当
- TEL/FAX:023-630-3342/023-630-2874
- E-Mail:表示するにはJavaScriptを有効にしてください