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特集「三島通庸と山形県」三島通庸と関係の深い人々

山形県の近代化産業遺産群
特集「三島通庸と山形県」
三島通庸と関係の深い人々
 
多くの「山形県の近代化産業遺産」に携わった三島通庸であるが、ここではこれらの事業を行う中で関わりのあった人々を紹介する。

 
■大久保利通
内務卿・大久保利通の肖像

内務卿・大久保利通の肖像
(国立国会図書館蔵)

三島通庸が行った山形県の開発事業は、内務卿大久保利通の政策で、明治政府の方針であった東北開発計画が背景になっている。
この大久保の政策を実現するためには、経済・外圧・内政の3つの課題があった。
経済的課題は、殖産興業を盛んにして国内経済を豊かにすることであった。当時の主力輸出品であり、幕末から成長してきた東北の生糸生産に目をつけて、その増産を目指した。
外圧では北方ロシアの脅威に対抗するために、北海道の開発を進めるとともに、東北での軍隊の派遣を迅速に行う道路網の整備の必要があった。
また、内政的課題は東北の鎮撫であった。東北の多くの藩は、戊辰戦争では官軍と対立していた。特に庄内藩は、戊辰戦争敗戦後の処理で西郷隆盛の寛大な処分に恩を感じており、西南戦争の折には薩摩藩に呼応して挙兵する心配があった。
大久保利通は、これらの東北地方の開発を進めるために、その実務を「鹿児島都城の地頭の経験」や「東京銀座煉瓦街建設の実施」などで功績のあった三島通庸を選んだのである。

 
■高橋由一
江戸時代から明治の中ごろに活躍した、日本で初めての洋画家である。代表作には、重要文化財に指定されている「鮭」などがある。明治12年には、元老院から命じられて明治天皇像を描いている。
山形市街図

高橋由一 「山形市街図」 (山形県所蔵)

明治14年、54歳の時に三島通庸の依頼で山形を訪問し、「山形市街図」「上杉鷹山」などの油彩画を製作した。
その後に、明治天皇を迎えた栗子隧道の開通式にも列席している。
高橋由一は同年に、山形地方の新道「図誌」を作ることを三島通庸に建言している。これにより、明治17年に三島通庸からの依頼を受けて、山形・福島・栃木の新道を写生し、翌年に「三島県令道路改修記念画帖」を出版した。

 
■菊池新学
天童市の出身で、山形市の七日町に東北地方最初の写真館を開業した。
三島通庸は、菊池新学を御用写真師として雇い入れ、山形県で施工したすべての土木事業を撮影させている。特に、山形官庁街の写真は、大通りに全体が見渡せる櫓を組んで撮影する、大掛かりなものであった。(上記の高橋由一の「山形市街図」は、菊池新学が撮影した山形官庁街の写真をもとにして描かれたと言われている。)
菊池新学の写した写真は、一組84枚のアルバムとして明治天皇に献上されている。
また、撮影した写真と当時使用したカメラが、旧東村山郡役所(「旧東村山郡役所資料館」)で見ることができる。
 
菊池新学のカメラ
菊池新学の撮影した写真
菊池新学の撮影した写真


 
■高橋兼吉
旧西田川郡役所

旧西田川郡役所

庄内を代表する建築家で、数々の洋風近代建築(擬洋風建築)や寺社建築を施工している。明治8年に松ヶ岡開墾場、そして明治10年に庄内神社の建立に従事した。
高橋兼吉は、江戸時代からの優れた大工の棟梁であったが、明治9年頃に横浜の棟梁佐野友治郎から洋風建築の工法を学んでいる。その後、明治中期ころまでにいくつかの擬洋風建築を手掛けた。
高橋兼吉は、三島通庸の命により、旧西田川郡役所(明治14年)・旧鶴岡警察署庁舎(明治17年)などを建設している。
その他に関わった建造物は、下清水深山神社(明治14年)・湯田川由豆佐女神社(明治15年) ・東田川郡役所(明治20年)・大山新民館(明治24年)・狩川役場(明治24年)・善宝寺五重塔(明治26年) ・山居倉庫(明治26年)などがある。
 
松ヶ岡開墾場

松ヶ岡開墾場

山居倉庫

山居倉庫

旧鶴岡警察署庁舎

旧鶴岡警察署庁舎

 

 

コラム  高橋由一の「三島県令道路改修記念画帖」
高橋由一の「三島県令道路改修記念画帖」は、三島通庸の依頼により製作された石版画帖で、山形・福島・栃木の3県の新道を描いている。石版画の構成は、山形が55図、福島が53図、栃木が20図で全128図となっている。この石版画帖では、三島通庸が作り出した新しい風景を記録することにより、その業績を表現したものである。
高橋由一は日本で初めての洋画家で、荒縄に吊るされた鮭を描いた油絵はあまりにも有名で高い評価を得ている。そんな由一ではあったが、明治14年頃には洋画を排斥して日本画を保護する運動が起き、洋画家としては厳しい立場にあった。ちょうど、この頃に三島通庸の開発事業を描いている。
「三島県令道路改修記念画帖」の制作の経緯を見ると、高橋由一の方から売り込んだらしいという記録が残っている。高橋由一は、三島の依頼で山形を訪問した後に、新道を写生して石版画帖を刊行することを建言している。この提案に対して、三島は多忙であったために返答が遅れ、実際に高橋由一が山形に写生旅行に旅立ったのは3年後であった。
この石版画帖が完成したのは、明治18年の3月であった。この年の末に、三島に50部を上納し、それらは宮内省のほかに諸官省、大臣などに配られた。
 
栗子隧道

栗子隧道

片洞門

片洞門

吉田橋

吉田橋

 

 

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