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西郷どんと山形県

(平成29年12月15日掲載)
 

江戸幕府の倒幕と明治維新において最大の功労者と讃えられた西郷 隆盛さいごう たかもり 。日本の新しい時代の幕開けを信じ、獅子奮迅の活躍をした男である。大久保 利通おおくぼ としみち木戸 孝允きど たかよしとともに「維新の三傑 さんけつ」とも呼ばれている。しかし、その彼がわずか10年後には反逆者の汚名を着せられ命を絶つことになる。西郷の、強い信念と意志を貫き、義理と人情の間で揺れ動いた激動の生涯、さらには山形県との不思議な"縁"について2回にわたり紹介したい。

南洲翁(なんしゅうおう)西郷隆盛の生涯

西郷は、1827(文政10)年12月7日、薩摩国鹿児島城下の 下加治屋町したかじやまち(現在の鹿児島市 加治屋町かじやちょう)に生まれた。幼名は 小吉こきち、長じて 隆永たかなが、後に隆盛と名乗る。通称は 吉之助きちのすけで通していた。「南洲なんしゅう」とは、西郷が名乗っていた雅号である。西郷家の家格は「御小姓与おこしょうぐみ」。薩摩藩の士分(武士の身分のこと)では下から二番目の下級藩士であったことから、幼少期の暮らしぶりはとても貧しかったようである。少年時代については残されている史料が少なく、はっきりとしたことはわからないが、けんかで右腕を負傷。武術をあきらめ学問に精を出すようになったと伝えられている。

軍事や産業の近代化を進める集成館事業を展開するなど、先見の明があった薩摩藩主・ 島津 斉彬しまず なりあきらに才覚を見出され手腕を発揮したものの、斉彬が急逝すると西郷の周囲の状況は悪化。奄美大島や徳之島、 沖永良部島おきのえらぶじまといった遠島での生活を余儀なくされた。

1863(文久3)年、度々起こった開国に反対する 攘夷じょうい急進派の抵抗により幕府の権威失墜が進行していく。薩摩流の公武周旋をやり直そうとした薩摩藩最高権力者・ 島津 久光しまづ ひさみつは、 大久保 利通おおくぼ としみちや家老・ 小松 帯刀こまつ たてわきの勧めもあり、この苦境を打開するため西郷を沖永良部島から召喚させることを決める。そしてついに1864(元治元)年、西郷は政治の表舞台に戻ることとなる。禁門の変(※1)では薩摩藩兵を率いて長州を退けるなどの征討にあたる。その後一転して長州と連合し江戸幕府による政治を廃す王政復古を主導。戊辰戦争では官軍の参謀として旧幕府軍に勝利し、明治政府樹立の立役者となっていく。特に 勝 海舟かつ かいしゅうとの話し合いによる江戸城無血開城は、西郷の名声を大きく高めることとなる。

南洲墓地(鹿児島市)にある西郷隆盛の墓。南洲墓地には西南戦争に敗れた薩軍2,023名もの将兵が眠っている。

明治維新後は新政府の参議として廃藩置県を断行。学制や徴兵制を導入するなど、新政府の中で重要な役割を担っていたが、大きな意見の対立から職を辞して鹿児島へと戻り、「私学校」を開設し若者の教育などにあたる。しかし、政府の政策に不平を持つ若者たちの暴発を抑えることができず、1877(明治10)年、西郷を盟主とする士族による武力反乱・西南戦争 せいなんせんそう (※2)が勃発してしまう。西郷軍には九州各地から多くの士族が加わり、激しい戦いが繰り広げられたが、最後は圧倒的な兵力の官軍によって鎮圧され、同年9月24日、ついに西郷は鹿児島市の城山で自刃。享年51(満49)歳だった。

「西郷隆盛は、政府軍に勝とうとは考えていなかったと思います。話し合いで解決しようとして出兵したようです。あんな大惨事になることを予想していなかったのではないでしょうか。ただ、私学校の教え子たちを守るために止む無く先頭に立ったのだと思います」(※3)と、西郷隆盛のひ孫・隆文さんは話されている。


(※1)禁門の変・・・1864(元治元)年に京都で起きた武力衝突事件。前年の政変で京都を追われ、朝廷の九門の一つ・禁門警備の任を解かれた長州勢が勢力奪回を図って敗れた。蛤(はまぐり)御門(ごもん)の変ともいう。
(※2)西南戦争・・・西郷隆盛を総大将にした旧薩摩藩士軍と明治政府軍の戦い。明治維新が起こって以来、明治政府が初めて本格的に軍事行動を起こした戦いであり、最後の武士の内乱。
明治政府がとった「四民平等」や「徴兵令」の導入など、明治維新の功労者である旧士族の一方的な待遇悪化がひとつの要因とされている。
(※3)平成29年10月4日に中山町中央公民館において開催された「西郷兄弟に学ぶ中山町の未来」の中での談話。

「敬天(けいてん)愛人(あいじん)」の精神

西郷を語るうえで忘れてならない言葉、それが「敬天愛人」である。「天を うやまい、人を愛する」という。西郷が好んで使い、よく 揮毫きごうした言葉だ。一説には流刑の地・沖永良部島でのゆったりとした時間と美しい風景が、西郷の人間形成に大きな影響を与え、「敬天愛人」の思想を育くみ形成させたとされる。

発祥の地を伝える沖永良部島の石碑。写真協力:(一社)おきのえらぶ島観光協会

「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、『天を敬する』を目的とす。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以て『人を愛する』也」(意訳:道というものは天地自然のものであって、人はただそれを行うものである。したがって人の道は天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分をも全く同様に平等に愛してくれるものであるから、自分を愛する心を以てすべての人を愛することが人の道である)
※意訳は「南洲翁遺訓に学ぶ(公益財団法人 荘内南洲会)」より出典

 
 山形県との交わり
1)徳の交わり ~西郷隆盛と菅実秀との深い親交~

菅 実秀すげ さねひで は1830(文政13)年1月8日、出羽国鶴岡(現在の山形県鶴岡市)に生まれた。庄内藩中老。雅号は月山がっさんの異名「臥牛がぎゅう」。1863(文久3)年に藩主・ 酒井 忠篤さかい だたずみ のもと、松平 親懐まつだいら ちかひろとともに江戸市中取締りにあたる。戉辰戦争の処理において、新政府に移封命令を撤回させるなど、敏腕を発揮。戊辰戦争後は西郷を私淑ししゅく し、西郷没後「南洲翁遺訓」編纂の中心となった。明治維新直後の廃藩置県の折、職を失った士族救済のため行った「松ケ岡開墾」をはじめ、銀行や米取引、製糸業などの事業を興した。
 鹿児島市の西郷屋敷跡には、ここで西郷と菅が「徳の交わり」を誓い合ったことを記念し、両者が対面している座像が建立されている。菅は西郷の懐の深い人となりと高遠な精神を尊敬するようになり、二人は親交を深めていった。先に記した松ケ岡開墾も西郷に相談し激励を受けたという。
 なお、西南戦争が勃発した際、参戦に傾く旧庄内藩内の強硬意見を抑えるのに苦慮したらしい。「参戦することが必ずしも西郷の本意ではない」と必死に説いたという。

西郷武屋敷跡(鹿児島市)にある、西郷と菅が対座している「徳の交わり」の座像。同じものが荘内南洲神社にもある。【トップ画像参照】
写真協力:(公社)鹿児島県観光連盟
2)「南洲翁遺訓」~西郷の遺徳を全国に知らしめたのは山形県人~

鳥羽・伏見の戦いの契機となり、多くの死傷者を出した江戸薩摩藩邸焼討を実行したのが庄内藩(山形県鶴岡市・酒田市)を中心とした幕府軍。庄内藩は、1868(明治元)年に勃発した戊辰戦争でも新政府軍に最後まで果敢に抵抗した。そのため降伏した時は厳重な処罰が下ることを覚悟していた。しかし、新政府軍参謀の薩摩藩士・黒田 清隆くろだ きよたかは、ともに列藩同盟の盟主だった会津藩への処分(23万石を3万石に減封したうえ斗南藩(現在の青森県東部)に転封)に比べ、庄内藩に対しては極めて寛大な処置(17万石を12万石に減封。会津藩(現在の福島県西部等)や磐城平藩(現在の福島県浜通り南部)への移封の話があったが、献金等により撤回)を取った。この温情ある処置に対し庄内藩の人々はいたく感激した。後日、これらの処置は西郷が黒田に指示して行わせていたということを知った庄内藩の人々は、西郷に感銘し大いに慕うようになったのだった。西郷は黒田に対し「敗軍の将に対して傲岸 ごうがんな態度で接してはならない」と説いたという。その後庄内藩では、西郷を東京や鹿児島に訪ね教えを仰ぐようになった。1870(明治3)年には、藩主・酒井 忠篤が旧藩士76人を引き連れ、鹿児島の西郷を訪ね親しく軍事教育などを学んでいる。
 1889(明治22)年、大日本帝国憲法が公布されると、大赦により、西南戦争で剥奪された官位が西郷に戻され名誉が回復。これを契機に、旧庄内藩士たちが西郷から直接聞いた教訓や思想を一冊の本にまとめ1890(明治23)年1月に刊行した。これが西郷を広く世に知らしめることとなった、「南洲翁遺訓」である。4月になると、旧庄内藩士たちは完成した本を携え、全国を行脚し、頒布しながら西郷の遺徳の伝導に努めたという。

荘内南洲神社で現在も頒布されている「南洲翁遺訓」。
3)上野のものよりそっくり!?~鹿児島の銅像のモデルは山形県人~

先に記した大赦により汚名が解かれたのをきっかけに、高村 光雲たかむら こううん らによって西郷の銅像が制作され、1898(明治31)年に上野公園に建てられた。除幕式に招かれた糸子夫人が「うちの主人は、こげんなお人ではなかった」とつぶやいたという。
  その後、もう1体の銅像が 安藤 照 あんどう てるにより制作され、1937(昭和12)年に鹿児島市内の城山公園に建てられている。その銅像のモデルは、実は山形県中山町選出の県議・石澤 宏太郎 いしざわ こうたろう氏だった。石澤氏を遺族に会わせたところ、「本人にそっくり」と太鼓判を押したという。1950(昭和25)年12月7日付けの南日本新聞が『山形にいた銅像のモデル』として「モデルを探したが貴方ほど似ている人はいない」と安藤氏が石澤氏にモデルを懇望したという逸話とともに紹介している。

上野公園の銅像。建立に際し、旧庄内藩藩主・酒井忠篤が発起人の一人として名を連ねている。
城山公園(鹿児島市)の銅像。高さ8mの威風堂々とした佇まい。
写真協力:(公社)鹿児島県観光連盟

 いよいよ来年1月からNHK大河ドラマ『西郷どん』が放映される。九州の南端に位置する鹿児島県と東北の日本海側に位置する山形県は、実に千km以上遠く離れている。しかし、"明治"という新しい時代が産声をあげた150年前、鹿児島県の西郷隆盛と山形県とは深い関わりを持ち、その絆は延々と今に続いている。全国の皆さんに『西郷どん』ゆかりの地・山形県を、ぜひ身近に感じていただきたい。
 『西郷どん』特集《後編》は、№367号(平成30年2月16日発信)に掲載予定。山形県内のゆかりの地を紹介。乞うご期待!!

 
《コラム1》
歴史に翻弄された兄弟
南洲墓地(鹿児島市)の旧庄内藩士・伴兼之と榊原政治の墓。帰郷するよう勧められたが、西郷を慕って西南戦争に参加し戦死したのだという。

 1877(明治10)年に西郷隆盛率いる旧薩摩藩士と新政府が戦った「西南戦争」。実は、この戦いに旧庄内藩士が参戦している。西郷軍には 伴 兼之ばん かねゆき が、政府軍には鱸 成信すずき しげのぶが参戦。なんと二人は兄弟であり、兼之は西郷が設立した私学校で兵学を学び、開戦後も帰郷せず西郷軍に参加。成信は新政府軍に入隊。西南戦争で最大の激戦地となった田原坂たばるざか(熊本県熊本市)において奇しくも兄弟が敵味方に分かれて戦い、ともに戦死することになった。
ちなみに、伴家は、長男・兼吉、次男・成信(鱸家に養子)、三男・藤三郎(秋保家の養子になり、秋保 親兼 あきほ ちかかね と改名)、四男・兼之の4人兄弟。成信と兼之の年齢差は12歳。
 なお、旧庄内藩からは兼之のほか、榊原 政治 さかきばら まさはる も西郷軍に加わり戦死している。二人は、西郷を慕い遠く山形から西郷の私学校に入学し勉学に励んだ。西郷は薩摩藩と関係のなかった二人に何度も郷里に帰るよう諭したが、「西郷先生の一大事に帰ることはできない」と参戦を懇願したのだという。

《コラム2》
なぜ西郷隆盛は庄内藩に寛大だったのか

 このことには、理由は諸説あるようだが、一体何だったのだろう。真相は西郷どんのみぞ知る!?

① 庄内藩は、最新・最強の武器を備え、戊辰戦争では無敗を誇り、最後まで新政府軍を自らの領地内に踏み入らせないほど、ずば抜けて強かった。西郷はその力を恐れたのではないか。そのため、その後松ヶ岡開墾に注力させたのではないかとも考えられている。
② 庄内藩・菅の「自分が戦争責任者として死を選ぶのはやすいが、まず藩を守り、藩士の生活を守りたい」という考えに心を動かされたからではないか。(平成29年12月14日付け「荘内日報」より)
③ 西郷には、薩摩藩が非常に世話になった恩人・本間 郡兵衛ほんま ぐんべえ (※4)の生誕地である庄内藩を力押しの武力で制圧するつもりはさらさらなかったからではないか。
(※4)本間家の分家・本間 信四郎(国光)の二男。竹陽斎友信より彫刻を、葛飾北斎より絵を習った(そのため号を「北曜ほくよう 」と称した)という。開成所(薩摩藩洋学校)の英語教師となった。また、産業施策を提案するなど、薩摩の進取家たちに非常な影響を与えたという。
④ 「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われるほど、日本一の大地主といわれた庄内藩・本間家。その莫大な財産が必要だったからではないか。1869(明治2)年には、磐城平藩への移封を撤回する条件として、新政府から70万両(一説によると、現代の価値で70億円)という莫大な献金を求められている。

【取材協力】

荘内南洲会
(公社)鹿児島県観光連盟
南洲神社
(一社)おきのえらぶ島観光協会

【おすすめサイト】

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  • 平成29年12月15日掲載

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