鳥海山大物忌神社文書 正平十三年八月三十日 北畠顕信寄進状1通 承久二年十二月三日 鎌倉幕府奉行人連署奉書1通 (ちょうかいさんおおものいみじんじゃもんじょ しょうへいじゅうさんねんはちがつさんじゅうにち きたばたけけんしんきしんじょう1つう しょうきゅうにねんじゅうにがつみっか かまくらばくふぶぎょうにんれんしょほうしょ1つう)

名称(事業名) | 鳥海山大物忌神社文書 正平十三年八月三十日 北畠顕信寄進状1通 承久二年十二月三日 鎌倉幕府奉行人連署奉書1通 |
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ふりがな | ちょうかいさんおおものいみじんじゃもんじょ しょうへいじゅうさんねんはちがつさんじゅうにち きたばたけけんしんきしんじょう1つう しょうきゅうにねんじゅうにがつみっか かまくらばくふぶぎょうにんれんしょほうしょ1つう |
指定区分 | 国指定文化財 古文書 |
指定年月日 | 昭和12(1937)年 7月 29日 |
所在地(市町村) | 遊佐町吹浦字布倉1 |
所有者(実施団体名) | 鳥海山大物忌神社 |
概要 (活動状況等) |
上の文書は、鎌倉幕府が、出羽国両所宮(大物忌神社)の修造を北目地頭新留守に命じたが、普請が出来上がらない旨を神主の久永から訴えがあったので、建保6年(1218年)に、雑色正家を派遣して社殿の修造の催促にあたったが、源実朝の事件が発生して完成しないで帰った。承久2年(1220年)12月に、雑色真光を遣わし、再び北目地頭新留守に催促して、両所宮の修造を竣工するようにという、北条義時の仰せを取次する内容の文書で、庄内地方最古の文書である。 下の文書は、正平13年(1358年)4月、足利尊氏の死を知った北畠顕信が、南朝の勢力挽回は今だと、同8月に出羽国一宮両所宮に南朝の復興と、陸奥・出羽国の静謐(せいひつ)を祈願した時の寄進状である。 |
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