北楯大学墓 (きただてだいがくのはか)

名称(事業名) | 北楯大学墓 |
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ふりがな | きただてだいがくのはか |
指定区分 | 県指定文化財 史跡 |
指定年月日 | 昭和27(1952)年 4月 1日 |
所在地(市町村) | 庄内町狩川字小野里101の内 |
所有者(実施団体名) | 個人 |
概要 (活動状況等) |
狩川の見龍寺境内の墓地に北館大学利長(1548~1625年)の慰霊を弔う墓がある。高さ114㎝、凝灰岩製の五輪塔の墓で、大正7年(1918年)、土堤の内部に玉石を敷き詰めただけの墓地を現況に改修した。 利長は山形藩主最上義光の家臣で、慶長5年(1600年)、庄内三郡の最上氏領有化に伴い、立谷沢・清川・狩川3,000石の領主となり狩川城を構えた。翌年に北館と称し、後に北楯とする。水利不良の田地荒廃を憂い、狩川(北楯)大堰の開削を企図し、慶長17年(1612年)に難工事を完成させた。この濯漑で約80カ村、4,200ha余の原野が美田となった。最上氏の改易後、長子が庄内藩に召され、利長は隠居している。寛永2年(1625年)に78歳で病没した。 地元民は北館水神と崇め、北館神社を祭っている。大正4年(1915年)に従五位を追贈された。 |
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公開の有無:有 |
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