関雅人

板金

関雅人の仕事。
有限会社 ルーフ・セキ(天童市)

大工が造る躯体を体に例えるならば、
建築板金の仕事はそれに洋服を着せること。
建て方やデザインは時代と共に変化するが、
確かな技術で誠心誠意お客様に向き合う姿勢は、
100 年経っても変わらない。
「地域の家を守る」
決意は、次世代へ受け継がれていく。


※所属等は取材当時のものであり、現在と異なる場合があります。

関雅人 受け継いだ技術とお客様の信頼

天童市で板金業を生業とし100年続く「ルーフ・セキ」。一般的な屋根・外壁の工事から、神社仏閣の板金、太陽光発電システムの導入に至るまで、幅広い分野で活躍する。
「お客様は父や祖父の代から繋がりの深い方も多く、絆も深く信頼があります。そこから口コミで他のお客様よりご依頼いただくこともあります。お困りごとに対応しているうちに、広く仕事を行うようになりました」と3代目を受け継ぐ、関雅人さん。
この日は、家屋にハクビシンが出入りするようになってしまったとの相談が寄せられ、お客様のご自宅に調査に行っていた。現場で出入口となっている隙間を見つけ、採寸と計算。事務所に戻って部材を選んで切断と加工。再び現場で取り付けを行った。
「屋根一つとっても建て方や、築年数、立地条件が異なります。どんなふうに雨や風、雪が当たるのか想像をめぐらせて。手間をかけながらも、そのあと支障がないようしっかり検討させてもらっています。」
ほとんどの仕事がオーダーメイド。お客様のお困りごとや要望と向き合い考え、それまで培われた技術や経験と柔軟な発想から、最善の仕事が施されていた。


達成に向かって施す、手仕事の楽しさ。
そして、次の時代へのバトン


「神社仏閣の屋根は独特で、銅板独自の工法があり、親父の手をずっと観察しながら、叩き込まれました。頭で覚えても手が動かない。何度も実践を繰り返し、曲げ方、手で加える圧力、そのほとんどを体で覚えました。長年の蓄積が必要です。」
2代目である関さんのお父さんは昔ながらの職人で、とにかく厳しかったそう。小学生の頃からお小遣い欲しさに、部材加工のお手伝いもしていた。単純作業だったものの、道具の使い方を覚え、自らなした仕事から身を立てるうれしさも実感した。そして進路を問われた18歳の時「体を動かすこの仕事がしたい」と家業を継ぐ決心をする。
日々取り組みながら感じる板金による機能性の向上と、完成したときの美しさを確認しての達成感。「想像する完成に向け、一つひとつ施していく過程も、本当に楽しいです。」

100年続いた稼業も、実は常に順風満帆というわけではなかった。13歳で宇都宮の板金店に見習いに出された初代は、20歳で独立。当時の山形はまだ茅葺屋根が主流の時代。仕事が少なく、手先の器用さを活かして農業機器などを開発。地域の人々の力になっていた。婿としてやってきた2代目はゼロから技術を学び、同業者からの人望もあって、40歳で天童市の板金組合の組合長に。厳しい人柄の裏に、並々ならぬ努力があったのでは、と振り返る。
「時代に 左右される仕事なので、いろんなものに興味をもち、学び続けることが大事です。お客様の想像を超えた提案ができるよう、努力しています。」
間もなく板金を始め50年という関さんには2人の息子がおり、4代目として一緒に仕事をしている。
「背中を見て育てという時代ではないので、ある程度の指導も。しかし自ら技術を磨き、日々考えることが重要ですよね。口を出しすぎず、見守っています。」


地域と職人を繋いで。
共に暮らしの未来を守る


「今は職人も人と繋がる技術、コミュニケーションも大事です。」
現場では、近隣にご迷惑が掛からないようにと、施工が始まる前に挨拶にまわる。そこから仕事の様子に注目し、依頼される方もいるようだ。
また関さんは 天童市の各組合でも活躍。2021年度までは天童板金工業組合長、現在は天童建設総合組合の書記長を務めている。板金のみならず、大工や畳店など建設に関わる様々な職人300人以上からなることから、お客様から相談された際には紹介し、サポートしてもらっている。
「家屋は呼吸ができるようにしっかり手入れをし続ければ100年以上持ちます。職人らの技術で、一緒に地域の暮らしを守っていけたらいいですね。」
コミュニケーションによって繋がれた職人たちの需要は、それぞれのモチベーションの向上に。さらには地域に本物の技術が広がっていくことが、地域にとって何より心強いことだろう。