
畳
ひとつひとつの仕事を丁寧にするのは当たり前、
その先にあるお客様の笑顔のために…。
修行時代に師匠からもらった言葉を今でも大事に、
本業の畳の仕事から、地域の活性化の活動まで、
変わりゆく時代の中でも、変わらぬモットーで汗を流しています。
※所属等は取材当時のものであり、現在と異なる場合があります。
時の流れに翻弄された本間家の畳店
その流れの先で自身が家業を継ぐことに
芳弘さんの祖父・金作さんが米沢市の『中津川畳本店』で修行をして畳店を創業。芳弘さんの父・金六さんは次男で長男の金一さんが畳店を継ぐはずでした。しかし、金一さんが戦争で亡くなり、金六さんが急遽、畳店を継ぐことに。
時が流れる中で金一さんの長男が畳店をすることになり、昭和42年の「羽越水害」を機に金六さんは、現在の地に『本間金六畳店』を開業することになったのだった。
芳弘さんもまた次男であるのだが、長男の兄が家業を継がないということを中学生時代に知った。父・金六さんと趣味や気も合った芳弘さんは「釣りもできるし、畳店やったらいい」という言葉に家業を継ぐことを決意した。
定時制高校に通いながら祖父と同じく『中津川畳本店』で修行をし、昭和54年、20歳で『本間金六畳店』へ。
修行時代の師匠の言葉を今でも仕事のモットーに
お客様ファーストで仕事に向き合う
『本間金六畳店』で父・金六さんとの仕事は、修行先で教わったやり方と違うこともあり、喧嘩もよくしたとのこと。しかし、仕事をしていく中で父・金六さんの畳へのこだわりも理解出来てきて、学ぶことが多くあったそうだ。
芳弘さんは15歳の修行時代の師匠の言葉「一分一厘の隙間なく畳を入れるのは当たり前。お客様がホッとすることが出来る空間を提供するのが仕事である。」を今でもモットーに畳の仕事に向き合っている。お客様の笑顔のために親身に相談にのり、丁寧に行った仕事に対して「ありがとう」や「頼んで良かった」というよろこびの言葉をもらったときが何よりうれしいと言う。
また、社寺建築では通常の3尺×6尺サイズ以外の畳製作や格調高い紋縁を使った畳の紋様を隣通し合わせる高度な技術が必要とされます。難しい仕事になりますが、その希望にしっかりと応えられたときには達成感と満足感があるので、そんな仕事も嫌いではないと芳弘さんは話します。
変わりゆく住宅事情に対応する畳の変化
変わりゆく中で忘れてはいけない日本の伝統文化
近年の新築住宅では洋風化が進み、和室が減少しているが、既存の建物にはまだ、多くの畳がある。家の使い方も変わってきている中で、畳も現状に合わせて変化していく必要があると芳弘さんは考えている。
実際、洋風や現代の住宅にマッチする畳やカラー畳、お客様のこだわりの畳などの需要が増えてきているそうだ。最近、要望が多いのは、縁なし半畳を市松模様に見えるように配置した畳コーナー。洋風にもマッチするし、古民家でも新しい和のデザインとして馴染むとクチコミで人気が広がっている。
見た目が変わっていく中でも「畳」という日本の伝統文化がしっかりと残っている理由。それは、湿度があるときは湿気を吸い、乾燥したときには吐き出す天然のエアコン作用は日本の気候、風土に合うという本質があるから。この本質を踏まえつつ日本の伝統文化「畳」を大切にしていく必要があると話してくれた。
技術の継承という面でも、社寺、仏閣などの仕事においては若い人に自分の仕事を見せることで学んでもらうとともに、教えることも上からではなく、一緒に考えることで後継者を育てていきたいと、息子さんと一緒に仕事の手を動かしていた。
人とのつながりを大切に地域の活性化にも貢献
そのつながりから「畳」を発信
『本間金六畳店』で畳職の仕事をしながら、川西町観光協会の会長、川西町消防団懇話会の会長などの要職を現役で担いながら、「チーム白猿」としてマウンテンバイクの大会を主催したり、趣味の方面でも多くの活動をしている芳弘さん。人とのつながりを大切にしながら、地域の活性化にも貢献できる活動をしていきたいと意気込んでいる。この地域貢献の活動にも仕事と同じモットーがあり、一番大事にしているいるのは「みんなの笑顔」だと。
川西町の『浴浴センター まどか』隣にお試し住宅『フラットハウス』も運営。畳敷の宿泊も可能な施設で、普段、畳に触れることの少ない子供にも畳に触れて感触を覚えてもらいたいと考えている。
日本の伝統である「畳」というものを忘れて欲しくないと、さまざまな人とのつながりやSNSなどを使った情報の発信を行い、芳弘さんは「畳」を次世代へと繋いでいきます。